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2004.04.30

言葉について

 10年くらい前にはやったトレンディ・ドラマって言葉。もはや死語かもしれないけれど、結局似たようなドラマはいまだに量産されている。タイトルやキャッチフレーズにひところよく使われたのが「愛」って言葉。「純愛」「究極の愛」「世紀の愛」「愛のなんちゃら」・・・口にするのは恥ずかしいけど、本当はみんな好きなんだよねえこの言葉。

 ドラマの登場人物たちは皆「愛している」はずの異性とのコミュニケーションに苦しんでいる。でも、自分の気持ちを表現する語彙が希薄であるがゆえに苦悩し続けているのは、何もドラマの中の主人公たちだけじゃない。誰だって一度は燃えるような恋をしたことがあるだろう。気持ちのすれちがいに夜も眠れぬほど悩んだ経験もあるだろう。だから登場人物がどんなに生活感がなく、浮き足だっていても、見ている連中にはある種の共感を呼ぶことができる。自分を表現する「言葉」をもたないがゆえ、相手の「言葉」の背後にあるものが理解できず、自分の気持ちを伝えることはむしろ「優しさに欠ける」と思ってる少年少女(あるいは元・少年少女)は特にね。

 なにも口先だけで愛を語れと言っているのではない。好きな異性に対する愛情の表現というか、自分の気持ちを伝える手段はいろいろ考えられる。でも、観念としての「愛」というものが実在するとして、どんな手段であっても、「愛そのもの」を相手に伝えることは不可能じゃないか。なぜならそれ自体に実体はないからだ。少なくとも俺たちの大半は、テレパシーを自由に扱える超能力者じゃない。俺たちは愛の存在への確信を言葉や所作や行為によって愛する人に伝え、同様に相手からも愛の存在証明を得ようとして涙ぐましい努力をしている。

 「愛は言葉じゃない」などとしたり顔に言う奴がいるが、こういう奴はその言葉だけでなく人格までも薄っぺらく見える。俺なら「愛なんてものは所詮言葉ぬきには語れねえんだよ」と言いたいね。 「愛」(何度も書いているとさすがに恥ずかしい)を語るには、互いが人生の経験の中で学んできたさまざまな表現を用いなければいけないと思うよ。愛しているからって最初からいきなり押し倒すわけにはいかんだろう。

 俺たちは頭の中に辞書を一冊抱え込んでる。人によって厚かったり薄かったり古かったりするかもしれない。その辞書は、人生とともに必ず厚くなっていく。
 言語の進歩もまたそういうものだった。言葉は多義的なものから単義的なものへと進化してきた。もちろん時とともに忘れられていく言葉もあるだろう。しかし、新しく作られる言葉のほうが、失われる言葉よりも圧倒的に多い。だから言葉の数は増えていくし、辞書は厚くなっていく。

 辞書を意図的に薄くすることは、ジョージ=オーウェルが「1984年」で描いた「新言語(ニュー・スピーク)」の悪夢。言語表現の幅を意図的に狭めることは国民を暗愚に導く。だから俺は教科書を薄く、内容を浅くしようという試みには反対する。

 少年少女よ、愛する人のためにも日本語を学ぼうぜ。


 かつて個人Webに書いた文章を大幅に削除および加筆し、文体をこのblogのものに統一して掲載した。

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コメント

トラックバックありがとうございました。
といっても、私自身TBの仕組みを十分には理解していないのですが、読んでもらえてるんだなと、うれしくなりました。

Passing Strangerさんの文章に深く頷いています。
「愛」って言うと恥ずかしいですが、一生自分の気持ちを自分の言葉で素直に語り合っていくことが、結果的に「愛」になっていくのかなあと、今回の経験で思いました。これを続けるのがきっと難しいんだろうなあ、きっと。いまはまだ、「愛」なんてこっぱずかしいこと言えませんけどね。


投稿: 市川 | 2004.05.18 22:30

こんばんは。とても興味深く読ませて頂きました。

言葉で全てを伝えることは難しいですが、言葉で伝えられない思いを言葉以外の手段で伝えることは、なお難しいと言えます。
極言すれば、「言葉にならない思い」なんてものは他者との関係の中では存在し得ず、言葉になったものだけが「思い」として存在し得るのかも知れません。

投稿: 非国民 | 2005.09.18 23:59

トラックバック、ありがとうございました。
ウンウン、納得、っていう感じで読ませていただきました。

言葉で伝えることをあきらめた「想い」なんて、絶対に、どんな方法でも伝わらないと、私は思っています。
未熟な言葉で伝えようともがき、相手の言葉の意味を必死で推し量り。
そうしてやっと、言葉と言葉以外のもの、両方ですこーしだけ伝わるのかもしれない。

そのぐらい必死に伝え合いたいですよね。

投稿: gegenga | 2005.09.19 19:48

>非国民さん

こんにちは

>>極言すれば、「言葉にならない思い」なんてものは他者との関係の中では存在し得ず、言葉になったものだけが「思い」として存在し得るのかも知れません。


 そうですね。個人の心の中にあるものは、愛にしろ、なににしろ、言語や所作という「表現」を通じてしか他人は認識できない。人間がその進化の過程で、言語を獲得してきたからこそ、人類は繁栄していたのかもしれません。歴史によって紡ぎだされた多くの言葉を知らぬことは、他人に自分の思いを伝えられないだけでなく、他人の思いを理解したくともできないことにもつながります。これはある意味個人のあいだでも国家同士でも同じように思えます。

>gegengaさん

 この文章は予備校兼学習塾で、自分が教えている学生や生徒たちに向かって書いたものです。この文章では「愛」というものの意思疎通にこだわって書いていますが、自分がその年代に考えていたことは異性のことばかりだったから、きっと今、同じ年代の彼らも理解してくれるかなと思ったんです。本当は「愛」がテーマでなくても、例えば「友情」でも「相互理解」でも何でもよかったわけなんですけれどもね。

>>言葉で伝えることをあきらめた「想い」なんて、絶対に、どんな方法でも伝わらないと、私は思っています。

 そうですね。大人になるまでに、いや大人になってからも、思いが伝わらなかったことは、私ににも幾度あったことか・・・。

投稿: Rough Tone | 2005.09.20 01:50

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