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2004.04.23

1984年

 いまや古典のジョージ=オーウェル「1984年」。この作品に登場する全体主義国家における「新言語(ニュースピーク)」とよばれる言語の辞書は、版を重ねるにつれ言葉狩りがすすみ、政府に対して批判的な表現ができなくなる。表現しようとしてもその言葉がみつからないのだ。

 主人公は、禁止されていた「日記を書く」という行為を通じて、「テレスクリーン」から流れる「ニュース」に疑問をもっていく。戦争で名誉の戦死をとげた人物の名がいつのまにか別人にかわり、長く果てなく続く戦争の相手が、いつのまにか別の国にすりかわっているという具合だ。日記をつけることによって、彼はその社会のあらゆるものに不審の念を抱くようになる。

                ※                  ※

 かつて2人の日本人外交官は治安状況を甘く見て行動し殺害された。しかし彼らの行為は賞賛されこそすれ自己責任を問う議論はなかった。なのに今回の人質は自己責任もわきまえない愚か者扱いとなった。お上のやることは常に正しく英雄的で、民間のシロートは国際貢献などしなくてもよいということなのだろうか? イラク復興にかかわっていいのは外交官や自衛隊だけなのか? それとも、今回の人質は殺されなかったから英雄でなく愚か者とでもいうのか?

そういうのを二枚舌というのだ。
彼らもひとしく英雄的だとなぜ言えぬ?
国際貢献への参加までも
官民の区別や、思想・信条で
差別されなければならぬのか?

 blogという日記にはできるだけ正直な言葉を綴ろうと思う。変わり身のはやい奴らは、現実社会にも、ネットという「テレスクリーン」にも大勢いるからね。

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