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2004.05.31

なまあたたかい雨

 日本経団連の奥田会長など、財界関係者が改憲発言を躊躇わなくなった。財界は「戦争は金になる」と踏み改憲へ積極的に動き出したようだね。

 小泉首相の北朝鮮訪問後、各紙の世論調査では内閣支持率が再び上昇したという。しかし、この勢いでそのまま参議院議員選挙で小泉の与党を勝たせるわけにはいかない。どこの政党に投票しろなどとはいわぬが、広範な反対勢力が「戦争政策を遂行しようとする現与党に票を入れさせないこと」で一致した投票行動をできないものか。野党内にも意見対立はあるだろうし、もちろんそれはあって当然のことなんだが、だからといって何もしないうちに戦時体制に導かれるわけにはいかないよ。
 イタリアのムッソリーニ政権とは異なって、ドイツではヒトラーが選挙で大多数に支持され組閣にいたった。たとえその結果がドイツ国会の政治的自殺を招こうとも、当時のドイツ国民は熱狂的に支持し、権力を与えたのだ。しかし、原因は単にドイツ国民が盲目的であったということではない。選挙によって権力を奪取したい、あるいは維持したい勢力というものは、それなりの事前の準備を行うものなのだ。

 連中はまず第一に、平和を訴えることをまるで売国的であるかのように罵り、内外に「脅威」という名の敵をつくって憎悪をかきたてる。日本で改憲を狙う連中にとっちゃ北朝鮮は格好の敵国だろう。あの国が不誠実な態度を取りつづけることを連中は最大限利用する。あの国の軍隊は、じつは日本の自衛隊よりもはるかに貧弱な装備しかもたないんだけどね。

 次に、奴らは声高に「正義」を唱え、彼らの戦争を正当化する。最近では「正義」は「国際貢献のため」であったりするから騙されてはいけない。かつての軍国日本の「正義」は「西欧列強からアジアを解放する大東亜共栄圏」だった。憲法前文の国際平和についての項目まで持ちだして自衛隊派遣を正当化したが、ちゃんと憲法を読んでさえいれば、そんな幼稚なイカサマは簡単に見破ることができる。

 さらに、連中は政府批判を反国家的と断じ、必死で封じ込めようとする。権力の子飼いたちがあらゆる誹謗中傷を流し、正当な言論活動を妨害する。批判されるものを擁護する者があれば、攻撃対象はその擁護者にも向かう。そして「個人の尊重」を「自己中心的」と貶め、「国家」よりも「個人」を優先させることを、まるで反道徳的であるかのように非難する。その一方で多数に属することによる安心感をアピールし、エセの「愛国心」を増幅する。しかし、戦争は人殺しであってサッカーではない。

 戦争を防ぐためには、ただ戦争を嫌がっているだけではダメだろう。選挙に行かずどこかで遊んでいたい奴だって戦争はキライなはずだからだ。皮肉な言説に聞こえるかもしれないが、戦争を敵とみなし、闘いつづけることこそ、それを防ぐのに最も必要なことなのだ。

 うにさんのブログ「壊れる前に...」など、いくつかのblogで紹介されていたノンフィクション絵本「戦争のつくりかた」

 俺は職場で自分の書いている中学社会科公民分野のテキストの付録につけさせてもらおうと思っている。

                ※                  ※

 土曜日は朝から仕事を入れていたのだが、ちょっと体調不良。ただでさえ蒸し暑いうえ、降圧剤の副作用もあって仕事中は汗だく。バイトの女の子が買ってきくれたかき氷を食べてしのぐ。夜は下関まで貝汁を食べに行く予定だったので非常に不安になった。夕方仕事を終えいったん自宅に戻り、シャワーを浴びてトコロテンを食べる。その日は夕方までこんなもんしか食べてなかった。

 一時間ほど仮眠すると頭痛もおさまり少し気分も少し持ち直したため、約束の時刻までに待ち合わせ場所のめかりPAに到着するため、都市高速を飛ばした。めかりで旧知の友人と会い、ドライブインまで移動して待望の貝汁を食べることができた。ホントは俺に過度の塩分は毒だが、今日は汗をかきすぎたんで貝汁の適度な塩分は最高にうまい。生き返るよ。
 久しぶりに会ったので遅くまで彼らと一緒にもろもろ語り、クルマをゆっくり走らせて深夜3時過ぎに帰宅。貝汁おいしかったね。また行こう。

                ※                  ※

今、激しい雨が降っている。ぬれるとなまあたたかく、体温に近い雨。
熱帯のスコールを思わせる雨。日本の雨って昔からこんなだったろうか。

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2004.05.29

戦場の真実

 イラクで日本人ジャーナリストが襲撃された。恐れていた事態が現実となってしまった。彼らは戦争の真実を伝えつづけた真のジャーナリストだった。
 彼らはサマーワからバグダットへ向かう途中で襲撃されたという。来月末の「主権返還」を前に、イラクの治安の悪化は極まってきた。外務省から渡航禁止を言われなくたってわかりきっている。今もイラクは戦場だ。だが戦場の真実は戦場からしか伝えられないこと、そのためには生命の危険を伴うことを、彼らは十分承知していたのだ。それでもなお、彼らはイラクに行かなければならなかった。

 この悲しみは、残念ながら数え切れない無数の悲劇のひとつ。自衛隊のいるサマーワは戦闘地域ではないと政府は強弁するが、不幸なことに、自衛隊はすでにイラクにいて、我々はそれを止められなかった。サマーワが非戦闘地域でなくなった瞬間、撤退しなければならないはずなのだが、残念ながらまた小泉流の卑怯なスリカエがおこなわれ、「テロに屈しない」という呪文によって解き放たれ、やがて戦争に本格参戦していくわが国の軍隊の姿が見える。涙がとまらない。

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2004.05.28

イマジニア

きみはいつもそう言っていた
私のことは誰もわかってくれないって
でもぼくは思うよ
きみのことは誰にもわからない
きみはきみの言葉をしゃべってる
本当にわかってあげたいと思った
きみの想像の世界を理解しようとしたさ
見えるものしか信じられないんだよ、ぼくは
どこかにあるはずのものや
あるかもしれないだけのもの
そこにあるけど見えないものや
きみにしか見えない不思議なもの
言葉にできないせつない思い
悪いけどぼくは信じない
ぼくにわかるのは
きみがそこにいることだけ
きみがぼくの前で振る舞うことだけ
ぼくはきみの前にいるだけ
きみは本当の言葉が欲しいっていった
でもぼくのいうことはわからなかった
一度は通じたと思ったさ
きみに想いを伝えるのに
言葉を選べなくて歯がゆい思いをした
ひどく自分を責めたこともある
だから、愛の魔法なんて信じない
愛の言葉なんてのはまやかし

                ※                  ※

 もうかなり前に終わってしまったが、NHKで放送されていた「アリー・マイラブ」というテレビドラマ。主人公は理想の男性とめぐり合うことを夢見ているキャリアウーマン(弁護士)。だから感情移入はちょっと難しかったね。でも、その他の登場人物が曲者ながら魅力的な奴ばかりなので、主人公に感情移入できなくったって、登場人物の関係に自分自身の人間関係を投影できるところもあって、いつの間にかはまって見ていた。登場人物が自分と同世代の人間だということもあるのかもしれない。特に、主人公と主人公のかつての恋人で、後に劇中で死去する同僚のビリーとの会話は、自分自身の経験も思い出されてすごく刹那かったよ。

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Things We Said Today

ブッシュさん、小泉さん
最近体調が悪くなったのをあなたたちのせいにしていいかい?
ニュース見るたび吐き気を催す。
阪神が横浜に勝てないからじゃない。

 元イラク人質へのバッシング、イラクでの無差別攻撃、テロリストによる民家人の殺害、アメリカのバグダッド大統領宮殿接収計画、虐待の証拠の隠滅計画、小泉首相の北朝鮮報道に関する首相官邸の対応、小泉首相を批判した拉致被害者家族への批判、言論や表現の自由への警察権力による抑圧の動き、教育現場への国家主義の介入、天皇や皇族の地位にかかわる妙な報道、着々と進む有事法制の整備。

これらはあるひとつの線で結ばれている。
俺はテロリズムを信じないから、言わせてもらう。
blogが武器となるなら、俺はこれでおまえらと戦う。

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自業自得・・・

 今回は政治がらみではなく職場での話。先日職場に置いてあるノートPCで原稿打ちをしていると、うちの男子学生(予備校生)が、「パソコンは得意ですか」と訊くので「まあまあだけど、どうしたの」と答えると、「うちのパソコンがウィルスにやられちゃったらしいんです。」と言う。「持ってきたら何とかしてくれますか」とのこと。この学生は俺の科目を受講している生徒ではないけれども、我が職場は講師と学生との距離が近いのがウリなので捨て置けず「空き時間に対応するから持っといで」と言っておいた。

 一昨日、彼はNECの大きなノートを持ってきた。WindowsXPモデル。状況を一目見て事態がわかった。一応フリーのアンチウィルスソフトと最新のウィルスデータベースをインストールして検索してみると、W32なんとかというウィルスが数百個もでてきた。これは空き時間になんとかするとかいうレベルではない。ネットで調べたところ、このウィルスはメモリに常駐し、実行されたファイルに次々に感染していくものだった。システムファイルやアンチウィルスソフト自体にもどんどん感染してしまう。聞けばこの学生は「WinMX」や「Winny」なんかのファイル共有ソフトを使いまくってるらしく、お馬鹿なファイルをいっぱい落としているらしい。数ヶ月前から調子が悪かったということだが、これじゃ自業自得ではないか。感染したのが本人の自覚どおり数ヶ月前だとすると、さんざんネット上にもウィルスをバラまいたことだろうね。

 HDDの中にはいろいろな画像やムービーのコレクションが入っていたが、これらを救出するのはあえてやめとこうと思う。巨大すぎてCDにも入らないものが多いんでこの職場じゃバックアップできない。そもそも違法性の高いものばかりだしね。というわけで、とりあえずリカバリしたまえと宣告。かなり落胆したようだが納得した。

 ちょっとかわいそうなので、IMEの辞書ファイルとブックマーク、メールデータとMP3ファイル群くらいは救出してあげようと思う。いずれにしても、来週まで待ってもらわないといけないね。

                ※                  ※

 このところ体調が不安なのだけれど、今週末は下関のとあるドライブインに、趣味のクルマ仲間で「貝汁」を食べに行ってリフレッシュする予定。土曜は仕事なんだけれど、夜なので参加できそうだ。久々に仲間と会うのはやはり楽しみ。特に夜のドライブはなんだか学生時代に戻ったみたいで楽しいね。まあお気楽な一人身なので、単に学生気分が抜けないだけなのかもしれないけど。

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2004.05.24

とはずかたり

愚か者に動かされる不幸な人々
愚か者が人々に動かされる不幸

正義は信じるものにある
正義は信じないものに悪

怒りが人を猿にする現象
怒りが去ると人にもつ愛情

神を信じる神の子羊
神を呪うか身の不始末

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スローガラスの幻影

 小泉首相の訪朝について、一部の拉致被害者の方とご家族が再会できたことはなによりうれしく思うが、今回ご家族に会うことがかなわなかった曽我さんや、前回の訪朝のとき、北朝鮮側の発表で死亡とされた人々のご家族は無念だっただろう。今回は小泉首相の拉致問題を利用した政治的得点のためのパフォーマンスはどうやら失敗だったようだ。 首脳会談という手段の結果がこれでは、拉致問題の真の解決はさらに遠いものになったのではないだろうか。

 まあ自身の年金未納問題はうまくはぐらかしてくれたけれどもね。しかし国民も馬鹿にされたものだ。

 北朝鮮を気味悪がる人が多いのは理解できる。たしかにあの金王朝ともいえる体制は21世紀の今となっては滑稽にしか見えない。しかし俺たちの住んでいるこの国だって、半世紀ちょっと前には、現在の北朝鮮と同様、特定の個人とその一族を神のごとく奉っていたんだよ。あの国の現状はまるでスローガラスに映るかつての日本の姿のよう。

 そして今もなお、そんな時代を懐かしがる奴もこの国にはいろいろといることも確かだ。有事法制も衆議院を通ってしまった。他の国の不自由を嘲っているヒマはない。あの時代に戻したい連中というのはじつにしたたかだ。灯台下暗しである。

                ※                  ※

 先日高血圧のせいか血尿が出ると書いたことで、多くの方からメールその他でさまざまなアドバイスをいただきました。どうもありがとうございます。その後、かなりの降圧に成功し症状は出なくなりました。ご心配をおかけいたしました。まだ不安定ですが、現在は普通の高血圧(!)です。異常値ではなくなりました。このところ仕事が忙しく、連続して週末に仕事を入れているため、好きなスポーツもできずストレスがたまり気味だったようです。今夜は阪神対巨人のもつれた試合でまた少し上がってましたが、これは阪神ファンの宿命でありますし、たいしたことではありません。

 2000年のアメリカ合衆国独立記念日に急性高血圧症にて緊急入院したのを思い出します。偶然にも広島原爆忌の8月6日にこの世に生を受けた俺にとって、アメリカ合衆国の独立記念日もまたある種の偶然の日であるようです。また、いまは亡き私の父は12月8日生まれでした。真珠湾攻撃の日であり、ジョン=レノンの命日でもある日です。俺は無神論者であるので、「なにかの因縁」というものは信じないけれど、ちょっと面白い偶然です。これらの偶然が私の現在の思想傾向に影響したのだと思えば、まんざら悪い気はしません。

※スローガラス

 透過する光が出てくるまでに時間がかかるガラス。そこに映るのは、過ぎ去った過去の風景。イギリスのSF作家ボブ=ショウの生んだ、美しく優雅、そしてどこか哀しい発明品。

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正義という名の不正義

 ベルリンの壁が崩壊し、マルタ島での会談で米ソ首脳が冷戦の終結を宣言した十数年前のこと。友人と「冷戦が終了したら、アメリカは火星人でも仮想敵国にしなけりゃ軍備拡張できないんじゃないの。」などと冗談を言い笑っていた。以前から国防総省は、軍事機密の保持のためか、いわゆるUFOの目撃情報に関して否定も肯定もしなかったことで、それを信じる人々を喜ばせていたのだが、ソ連が自壊に追いこまれてしまった以上、アメリカの敵はもはや宇宙人しかいないんじゃないか、というのがこのジョークの要だった。

 だから、映画「インディペンデンス・デイ」で、大統領を先頭にアメリカ軍が宇宙人と戦い、「アメリカの独立記念日にアメリカ合衆国大統領が地球を救う」という話を見たときは、開いた口がふさがらなかった。この国は相当おめでたい国だ、と心底思ったものだ。「自由と民主主義の国アメリカ」という幻想を今も疑うことなく信している多くのアメリカ国民にとって、彼らの「正義」は宇宙の「正義」であるのに違いない。

 しかし、アメリカ合衆国という国家が世界史の中でどのような価値と役割をもつのかということは、後世の史家の評価を待たなくてはならないのかも知れないが、ひところもてはやされた「グローバル化」が、政治や経済や社会がアメリカナイズすることすなわちグローバル・スタンダードだというのなら、それはもはや悪い冗談でしかない。

 かつてアメリカはソ連を「悪の帝国」として恐れ、敵愾心をあおり、巨大な軍産複合体をつくりあげてきた。しかし、そのソ連は「悪の帝国」にしてはあまりにあっけなく崩壊してしまった。社会主義の掲げる平等の理想とは程遠い、非民主主義体制と官僚主義、中央集権的指令経済のはびこった挙句の自壊であると思うが、アメリカはそれを、「社会主義に対する資本主義の勝利」と自賛した。ソ連型「社会主義」という「悪」が滅びたのち、アメリカ合衆国とその圧倒的に巨大な軍事力は、国民の自尊心を刺激し、巨大な軍産複合体を維持していくため、新たな「悪の帝国」を求めて彷徨ってきた。誰が頼んだというわけでもないのに「正義の味方」を自認して。

 アメリカ合衆国という国にとって、新たな「悪」という概念はいったい何なのだろう。「イスラム原理主義」あるいは「主体思想」なのだろうか。湾岸戦争やイラク戦争で対峙したフセインのイラクは、「悪の帝国」というには笑わせるほどの戦力しかもっていなかった。アメリカは勝利し、正義は守られたはずだった、ミロシェビッチの率いたユーゴははたして「悪の帝国」だったのだろうか。いや現在の北朝鮮こそ「悪の帝国」であるのか。実際のところ、それは偏狭な民族主義国家であったし、前時代的な独裁国家であるのかもしれないが、アメリカという軍事超大国を脅かすような「悪の帝国」ではありえないだろう。

 最近、そのDVDが他の作品と抱き合わせで廉売されている「インディペンデンス・デイ」に話を戻すと、過去の優れたSF映画への製作者のオマージュが作品中にちりばめられているのだが、それがまるで悪い冗談のように感じられて好きになれない。不謹慎といわれるかもしれないが、あの映画で唯一気に入っているシーンといえば、異星人の攻撃を受けホワイトハウスが吹き飛ぶシーンだけである。

 正義は、それを正義だと信じていないものに押しつけられるとき、不正義すなわち悪となる。

※個人Webよりblog用に改変して転載。

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2004.05.21

血染めのパンツ

 イスラエル軍によるエルサレムでのデモ隊への砲撃のニュースに怒りすぎたか、昨日の夜、血尿が出た。急性高血圧で入院したとき以来数年ぶりなんでショックである。パンツが血で汚れるのはまるでよろしくない病気にでもかかったようでたまらんものがある。最近仕事が多い上、さらに今週末と来週末は休みを返上して仕事を入れちまったのでなかなかつらい。

 あと、小泉訪朝に同行取材させないぞと、官邸が日テレを恫喝した事件。これももうちょっと問題になってもいいんじゃないかな。隠しダマの「コメ支援」をスクープされ逆ギレし「ニュースソースを教えれば同行を許す」なんて脅すのには、いったい今は何時代なんだよと思わせるものがある。さすがに行き過ぎを認めたようだが、こういうのが続くと腰抜けマスコミは萎縮するだろうな。

 最近、他人のblogに不快なコメントを書きちらすやつが殖えているみたいだ。そういうやりとりをあちこちで見かける。書き込む奴らはどんなBBSでも2ちゃん化してしまうんでタチが悪い。管理者がコメントを削除したら「言論弾圧」だと。笑わせるよ。

 俺のblogには批判的トラックバックならむしろ望むところだけど、いまのところコメントによる荒らしはまだない。でもこのスタンスだから時間の問題かもね


【追記】
 ある人に「血尿でパンツが汚れる」って言ったら「あなた、おもらししてるんですか」といわれた。たしかにそう思われる書きかただった。実際は排尿のときだけではなく、尿道から出血して下着を汚していたのだが・・・。

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2004.05.18

愛しているのは

 NHK「視点・論点」で、ドイツ・日本研究所のスヴェン=サーラ氏が、統合へ向かう欧州人の眼からみた東アジアについて論じていた。東アジアの統合の機運が高まらない理由として、欧州と異なって冷戦体制が未解決である問題や、アジア諸国と欧州諸国の国家観の違いなどとともに、日本の一部の政治家に見られる「愛国心」の「人工的な強化」などの「ナショナリズムの高まり」を例に挙げていたのは印象的だ。彼によれば「EU加盟国の国民は、サッカーの応援では国旗を振る人はいるが、欧州では政治、特に国家主義を想起させるようなナショナリズムはきわめて警戒される」という。

 国境がしだいになくなりつつある欧州の人であるサーラ氏が、ナショナリズムとの関連で印象に残っている言葉として挙げたのは、1960年代の西ドイツ大統領ハイネマンの言葉。インタビューアに「国を愛していますか」と問われた大統領は、その質問にむしろ驚きを示し、「私は妻を愛している」と答えたそうだ。

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「悪」それは戦禍、あるいは神

俺の敬愛する詩人アルテュール=ランボー"Arthur Rimbaud"の
普仏戦争を題材とした初期詩篇。

Le Mal

Tandis que les crachats rouges de la mitraille
Sifflent tout le jour, par l'infini du ciel bleu ;
Qu'e'carlates ou verts, pre`s du Roi qui les raille,
Croulent les bataillons en masse dans le feu ;

Tandis qu'une folie e'pouvantable, broie
Et fait de cent milliers d'hommes un tas fumant ;
--Pauvres morts ! dans l' e'te', dans l'herbe, dans ta joie,
Nature ! o^ toi qui fis ces hommes saintement ! ... --

-- Il est un Dieu, qui rit aux nappes damasse'es
Des autels, a` l'encens, aux grands calices d'or ;
Qui dans le bercement des hosannah s'endort,

Et se re'veille, quand des me`res, ramasse'es
Dans l'angoisse, et pleurant sous leur vieux bonnet noir,
Lui donnent un gros sou lie' dans leur mouchoir !


「悪」 (大島博光訳)

一斉射撃の吐き出す赤い痰が 一日じゅう
はてしない青い空に 唸りをあげている時にも
それを興がる王のちかく 真紅の大隊や
緑衣の大隊が 砲火の仲にどっと倒れる時にも

恐るべき狂気が十万の人々を打ち砕き
血にまみれた 屍の山に変えるときにも
夏の中 草の中 自然の歓喜の中の哀れな死者たち!
おお この人たちを厳かに作りた給うたおん身 自然よ!

そのときにも 神は 緞子の祭壇布や 香や
大きな黄金の聖餐杯に ほほ笑みながら
讃美歌のふしにゆすられて まどろんでいる
そうして母親たちが 怖れに身をすくめて
古びた黒い帽子の下に泣きながら ハンカチに
包んだお賽銭を投げる時 神は眼を覚ますのだ

rimbaud3

 ランボー (J.N.Arthur Rimbaud, 1854-1891)は、フランスの詩人。象徴派(Symbolism)のヴェルレーヌによって見出され、「早熟の天才」と呼ばれた詩人の代表作は「地獄の季節」「酔いどれ船」「イリュミナシオン」など。15歳から19歳というわずか4年間にその全文学的生涯を全うし、以後一篇の詩も書くことなく、イエメンのアデンにて「ムスリム商人として」37歳でこの世を去った。
 
 この詩人については、 わが国でも堀口大学、小林秀雄、中原中也など多くの訳者によって翻訳の試みがなされてきたが、多少の誤訳はあれどいずれも甲乙つけ難く、若げのいたりともいうべき過激な詩篇をよく伝えている(フランス語はよう解らんけど)。
 個人的には堀口の訳でランボーに出会った。当時高校生の自称・文学系不良少年は彼の詩篇に圧倒され失禁し完膚なきまでに打ち負かされた。今を生きるこの俺がなにか言う前に、すでに奴によってすべては語られ尽くしているという、筆舌に尽くしがたい敗北感とカタルシス。

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永遠に金持ち

 おや小沢氏も未納ですか。「首相に未加入問題が発覚したことを受け、加入義務化以前の加入履歴を調査した」とのことだが、実際はどうなんだろう。小泉首相のパフォーマンスも茶番なら、このひとの策略もほんと茶番。「俺が責任取るんだから小泉も責任取れ」ってことかね。いかれた理屈。こんな劇場型政治はもううんざり。小泉も小沢もさっさとワキへ下がってほしい。

 今日、高額納税者番付が発表になったようだけど、所得税の最高税率が引き下げになったので、高額納税者はずいぶん減ったという。なんとまあ、いつのまにか累進性はずいぶん緩和されたもんで、かつて最高70%だったのが最高37%ですと。新保守主義っていつもお金持ちに優しいね。

 所得税の最高税率の引き下げといえば、かつてアメリカでレーガン政権がレーガノミクスの一環として、かつて最高税率70%、15段階の税率区分だったものを最高税率わずか28%、2段階の課税区分にしちまったことがあった。あの所得格差の大きな国でこれをやったんだからアメリカのブルジョワ恐るべしである。その後民主党のクリントン大統領はいったん最高税率を39.6%に引き上げ、5段階の区分にもどしたけれど、共和党出身のジョージ.W.ブッシュがまた最高税率を31%に引き下げた。なんと彼は累進性の廃止が政治目標であるという。金持ちは努力もせず永遠に金持ちでありつづけるわけですな。

 自民党は高額納税者というか富裕層にはしっかり減税する一方で、所得税の課税最低限の引き下げはしっかりやりおえた。さらに今後消費税率も引き上げるつもりでいる。社会保障を切り崩し低所得者層に大打撃を与え、さらに市場への介入と称してブッシュの戦争や富裕層への減税を支えるために米国債を買う。そこまでやっていおいてまだ財源がないなどとぬかすか。

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2004.05.16

奴に気をつけろ

 小泉首相が訪朝するらしい。拉致被害者の方々や家族の方々の期待と危惧が相半ばしているのはもっともなことだ。冷静に見守る必要があるだろう。

 小泉首相は、この訪朝でなにかしら「成果」を挙げて参議院選挙に望むつもりなのだろう。この男はこの種のパフォーマンスしか能がない。首相の答弁では質問内容を捻じ曲げ、答えにならぬ詭弁を繰り返す。「あなたはそう思うかもしれないが、私はそうは思わない」の一点張りだ。およそ批判が通じにくい。国会は議論の場ではもはやなく、小泉首相によって言い逃れとおとぼけの場にされてしまった。

 かたや野党第一党の民主党は、「未納」をめぐる福田官房長官の辞任という、自民党の仕掛けた罠にまんまと嵌まり、「未納」問題を口実に権力闘争に明け暮れた挙句、その党首にかつて自民党本流の中枢にいた小沢一郎氏を選んだ。この人物は改憲論者であることを、俺たちは忘れないでおくべきだよ。狡猾で用意周到な点では小泉首相をはるかに凌ぐ。
 民主党は、昨年の総選挙のとき、自ら新保守主義者を自認する小沢一郎率いる自由党という魔物をまるごと飲み込んだが、飲み込んだ魔物に魂を奪われたわけだ。かなりくたびれてはいたが、市民運動出身であった菅直人氏を失脚させることによって、支持者の一部に残っていたリベラルへの期待も完全に裏切られてしまった。もはや民主党は第2自民党にすぎない。現在の自民党も、1955年に当時の「自由党」と「民主党」が合併してできたのもなにやら暗示的だ。
 小沢氏の政治手法なら、ある日突然「民主党を解党します」とか「自民党と民主党は合併します」とか言い出しかねないね。

                ※                  ※

 週のなかばから風邪をひきこんで、土曜日を迎えてしまった。「余暇のために働く」というのが、バブル時代に社会人になった俺のモットーだったが、実際のところ、歳をとるにつれ、「働くために余暇は休養に当てる」という状況になってる。「労働力の再生産過程」とはそういうものなのだろうと改めて思う。

 それに抗うべく週末はできるだけスポーツに費やすことにしてきたが、来週からは仕事も入りそうもいかなくなりそうだ。そこで今週は風邪を押してバドミントンに行ってきた。風邪薬を飲みながらスポーツをするのはナンセンスで危険極まりないということはわかっているが、せめて汗をかいておきたかったのだ。
 ここいらへんが、いつも「科学的であること」を信条にしているくせに、自分の実際の行動では矛盾を抱えているところで、なんとも情けない。

 さて、結果バドミントンのスコアはボロボロだったが、今日のところは一応風邪に勝利したのでよしとしよう。夜にはすっかり熱も下がった。気温は低めだったが、天気は雨で湿度が高いため、驚異的な発汗量だった。2リットルくらいドリンクも飲みまくった。もうひとつの持病である高血圧にはむしろそのほうがいい。利尿剤も飲んでいるから飲んだ分だけ出て行く感じ。

 とはいえ、今後はできるだけ体調に気をつけ、せっかくの週末を風邪ごときで台無しにしないようにしたいね。

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2004.05.11

悪夢のパックス=アメリカーナ

 思えば 2001年9月11日、同時多発テロのニュースを聞いたとき、これから世界は確実に悪い方向に行くという思いでやりきれなかったのを覚えている。しかしアメリカで起こったこの悲劇は、大きな悲劇の連鎖のほんの始まりに過ぎなかった。テロ撲滅を口実としたアフガニスタン戦争とその後のイラク戦争。あの同時多発テロ以来、どれほど多くの人々が無為に死ななければならなかっただろうか。

 マスコミで、アメリカを古典的な意味で「帝国主義」とよぶ論調が復活して久しい。毎日新聞などは「アメリカ民主帝国」という興味深いコラムを長く連載していた。
 しかしながら、レーニンの定義した「帝国主義」そのままのえげつない帝国主義が、この21世紀に化けて出るなどとは思いもしなかった。冷戦に勝利したと豪語したアメリカは、正義の味方を気取るなら、もう少し外見に気を遣い、慎重にことを進めるしたたかさを身に付けるのではないかと思っていた。

 共和党政権が大企業の代弁者なのは周知の事実である。ブッシュ政権は、「国益に反する」という理由で、世界一の温暖化ガス排出国でありながら京都議定書批准を拒否した。この国家のいう「国益」は、合衆国国民の利益ではなく、アメリカ合衆国の「軍産複合体」の利益である。ブッシュ政権の4年間は、まさに新保守主義者独裁の4年間だった。連中にとってわずか4年という期間はまったく十分ではないようだ。

                ※                  ※

「そこでローマは、自らの戦争の正当性を擁護する論理をつぎつぎと考えだした。ローマにとって危険な外敵の脅威をのぞくため、ローマの同盟者や友邦との信義のため、彼らの保護のため、彼らの自由のため、等々。つまり脅威を除去するための戦争は正義の戦争であり、信義のために起こした正義の戦争によってうちたてられる支配は正当である、というわけである。
 これらは口実にすぎなかったが、かりに口実以上の真実であったとしても、外敵が脅威である以上にローマ自身が周囲にとって脅威的存在であった。ローマの支配はまもなく周囲の民族にとって絶対的な脅威となり、脅威の除去という戦争の正当性はまったく失われていった。」

 これは現在広く使われている高校世界史の教科書、「新世界史・改訂版」(山川出版社)の一節。この文章は非常に示唆に富んでいる。「ローマ」の部分を「アメリカ」に差し替えてみれば、そのまま現在の世界にもあてはまることに気付く。 よくいわれることだが、退廃と奢侈のなかで滅びていったあの古代の巨大帝国と、幾世紀も時を隔てた現在のあの大国はなんとも相似形だ。

 そしてなおもこう続く。

「ローマの平和は、強力な一国支配が力でつくりだしたものであった。ローマが、いかに外敵の脅威をさけび、条約違反の制裁を主張し、友邦への信義や自由と解放を戦争の理由としてあげても、それは突出した力による武力制圧であることに変わりはなかった。」

 「国益」の実現のためには、地球環境も、国際協調も、尊い人命もおかまいなしというような政権は、この地球のためにも、今年限りでおしまいになると信じたい。

※個人Web掲載の複数の文章をまとめて改稿。

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2004.05.09

普通の市民が悪魔にかわるとき

 8日は午後から週例のバドミントンにでかけた。今年度からわりと本格的な練習に入ってきているが、だんだん体も慣れてきた。しかし気温が高くなるにつれ汗もたくさん出るようになってしまった。そろそろウェアにも着替えがないともたない。水分の消費も多いようで平気で1リットルくらい水やスポーツドリンクを飲んでしまう。

 BS1で阪神対中日戦を見た。藪と川上憲伸の息詰まる投手戦だったが、9回裏、川上から金本がサヨナラホームランを打ってタイガースが1対0でサヨナラ勝ちした。俺は阪神ファンだが、あの負け方ではちょっと川上がかわいそうだったな。
 タイガースが勝って安心したので、しばらく部屋で居眠り。スポーツ後の心地よい疲労感はいい。眠くなってうつらうつらしているときなどはとくに気持ちよい。身体のもつ疲労からの回復機能を感じる瞬間だね。

 しかし、TBS系のニュース「ブロードキャスター」で、イラクでの米軍兵士による捕虜虐待の写真や、昨年イラク戦争終結後にもかかわらず、夜間に米兵が民間人を意味もなく撃ち殺すところを赤外線撮影した映像を見せられて、しっかり現実に引き戻された。前者はこれまでネット上や新聞などで目にしていたが、後者の映像は、俺にとってかなりショッキングな映像だった。逃げ惑い、機関銃で打ち倒されるイラク人。射撃を行った米兵と上官のやりとりの音声つきだ。吐き気を催す。

 イラクで捕虜を虐待を行ったとして訴追された兵士の家族は口々に言う「彼(彼女)は普通の善良な市民なんだ」と。きっとそれは彼らにとって真実なんだろう。しかし、戦争という極限状況は「普通の市民」をいとも簡単に「悪魔」に変えてしまう。俺はそれだけでも絶対的に戦争に反対する理由になりえると思うよ。上官の命令や個人的な憎悪は、そんな「善良な市民」にも人を殺すのに十分な理由をいとも簡単に与えてしまうものなのだろう。このことは、あの20世紀を生きてきた人類ならばよく知っているはずなのだが。

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2004.05.06

認識と実在

 5月2日付の毎日新聞「今週の本棚」欄で、哲学者の村上陽一郎氏が、日高敏隆「動物と人間の世界認識」の書評を行っている。彼はこの中で、自身の主張である「認識の多元性」を高らかに主張し、日高氏の著作によって自らの主張の正しさが証明されたかのように誇らしげに書いている。さらに「科学は唯一、絶対の真理の『世界』を追求している」という「信念」が普及しているため、「科学者の一部」には、自分の主張を理解せず批判にならぬ批判をされ恨みをもっている」と主張する。

 まあこれは書評欄なので、彼の得意の「科学者悪者論」は控えめであるが、日高氏を「科学者の中にも、認識された『世界』というものについて、これだけの洞察をする人が現れた」と称え、「率直に喜んでいる」と書くことで、日高氏以外の「その他の科学者」を間接的に批判することは忘れていない。

 村上氏の「認識の多元性」とは、氏の言葉によれば概要はこうだ。

「動物の認識する『世界』と、人間の認識する『世界』は異なる。また、同じ人間の認識する『世界』でも、時代や共同体が違えば、いろいろであり得る」

 氏のいうことは自然科学的に見てもあたりまえといえばあたりまえである。人間と他の生物では感覚を受容する器官が異なるのは当然だし、感覚に対する反応が生育環境や文化、宗教などの差異によって、人ごとに認識が異なることも当然ありえる。しかし科学者は「認識されたもの」と「客観的実在」と混同してしまうようなことはない。

 「認識の多様性」を科学者が認識していないという前提は、一種の決め付けあるいは論理のすり替えではないだろうか。まるで「世界を認識する主観が多様」であることと「客観的な世界などというものはそもそも存在してない」ということを意図的に混同させようとしているかのようだ。これではまるでソフィストの詭弁だ。

 彼は自身のアメリカでの経験を例に挙げ、「日本語にあるアブラゼミやクマゼミなどの区別」が「日常語としての米語」になく、ただ六月に泣き出すセミ「ジューン・バグ(六月ムシ)」と呼ばれるだけであるということをもって、「言葉が無いということは、しばしば、その認識の『世界』では「意味あるものとして認められていない」ことになると書き、「認識された『世界』は人間にとって、動物にとって、ある意味を持ちます。私たちは、そうした「世界の意味づけ」のなかで初めて、生きているのだと思います」と結論づける。

 人間が認識した物事と、それに与えられる言葉(名前)の問題は、mossarinさんのblogでも書かれていたことでもあり、さまざまな考察が可能だと思う。人間は「世界の意味づけのなかで初めて生きている」のではなくむしろ「生きているから世界に意味づけを行う」のだと俺自身は考えている。

 村上氏のような立場は、誰も知らない深い森の奥で一本の木が倒れても、誰の知るところともならなければ、その木は存在しなかったのと同じことである」という唯我論の有名な命題とかわりがないように思える。
 俺は幼いころ、不遜にも、この世界は俺の意識のある間だけ存在を許されているものであって、俺が睡眠におちる瞬間に溶けてなくなるのではないかと考えたことがあった。しかし成長するにつれて、この世界というものは、じつは自分の意識とはかかわりなく存在しているのだということを、世界が思ったほど自分の思うようにならないという事実によって、まさに経験的に思い知らされた。カール=セーガン風にいうと、自分は「宇宙を思うままに操る神」から、「宇宙の中の一瞬だけ存在を許された矮小な存在」へと「大降格」されたのだ。

 唯我論に代表されるいわゆる主観的観念論は、「経験にもとづく演繹的思考」を旨とする科学的な思考法とはそもそも相容れない論理である。科学者が彼のような立場に立たないのは、その探求の手段からも目的からも当然ではないか。

 村上氏は著書『新しい科学論』の中で「科学の知識は累積もしなければ進歩もせず客観性もない」と記している。彼は科学者の反論を「批判にならぬ批判」と切って棄てるが、実際は彼が科学の思考方法に先に「イチャモンをつけた」のであって、科学者の側が先に彼を批判したのでないことだけは明らかだ。村上氏は、日高氏の言葉を借りて、「科学もまた私たちが得た『意味づけの世界』」「イリュージョン」にすぎないと主張し、「科学的思考」がまるで宗教の教義かなにかであるように貶める。いったい何が狙いなのかと勘ぐりたくなる。

 このような氏の観点に立ち、「名前をもっていない」だけで、その存在をも否定されることになるというのなら、名も知らぬ遠いイラクの民衆がアメリカ軍の攻撃によっていくら死んでも、我々の知るところとならなければそれは存在しないも同然だということだ。また、敵対するアラブとイスラエルには、それぞれイスラム教とユダヤ教という「世界」がそれぞれに存在していて、人間とモンシロチョウの認識する「世界」が異なるように、永遠に互いの共通項は見つからないということになる。少なくとも俺はこのような立場はとらない。

 念のため、村上氏のWebページに掲載されたエッセイのなかからイラク戦争に関係した部分をリンクしておく。ここで氏はブッシュについて「人間としての『軽さ』を感じてしまう」と述べるも、「非難はブッシュだけでなくサダム=フセインにもなされなければならない」と主張し、結果的に反戦論批判を展開している。

 スタニスワフ=レムの小説「ソラリスの陽のもとに」に登場する科学者たちは、「ソラリスの海」という理解を超えた存在がもたらす不可思議な事象を恐れつつも、観測し、分析し、時には悩み、絶望の淵にまで追い込まれながらも、それらを理解し「名前」をつけようと試みる。サルトルの実存小説の登場人物なら「嘔吐」してしまうところだろう。
 しかしながら、理解できぬ不可思議なものを恐れ、忘れ去ろうとすることと、それらを対象化し理解しようと努めることは、人間の思考や行動の様式についての鏡の両面のようなものである。

 もちろん俺は科学者ではないが、できれば科学的な思考によってこの世界に対峙し、それを理解しようと試みたい。たとえそれが広大な「未知」の砂丘の砂粒を「既知」のこの手で作った小さな砂山に移すような、果てしない試みであったとしても。

※参考サイト
村上陽一郎のホームページ

「黒木玄のウェブサイト」より
「藤永茂による村上陽一郎批判」
村上陽一郎の「微分の言い抜け」説

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2004.05.05

神々の名のもとに

 イスラム教の開祖ムハンマド(マホメット)は、自分のことをモーセ、イエスに次ぐ預言者であるといった。まあ、「最後で最高の預言者」っていってるところはなんとなく不遜に感じるが、それでも彼はユダヤ教徒、キリスト教徒を「啓典の民」と呼んで尊重したのである。
 無論これはムハンマドの論理であって、ローマカトリックをはじめとするキリスト教会はまったくこれを認めていない。ユダヤ教はともかく、キリスト教ではギリシア正教もプロテスタントもローマカトリックと同じアタナシウスの流れを汲む三位一体説をとっており、それによるとイエスは「預言者」ではなく「神」そのものだ。しかし、少なくとも開祖ムハンマドの認識はアッラーもエホバ(ヤハウェ)も同一の神だったわけだ。

 パレスチナ問題の象徴、聖地エルサレム。ここはユダヤ教、キリスト教、イスラム教の聖地として知られている。ユダヤ教の聖地がヘブライ王国の王宮の壁の一部が残るという嘆きの壁、イスラム教の聖地がムハンマドが昇天したという場所にある岩のドーム。キリスト教における聖地のモニュメントはなにかというと、かつてイエスが処刑されたゴルゴダの丘に建てられた聖墳墓教会だ。
 この教会はまことに複雑で、内部はギリシア正教とカトリックの祭壇が別個にあり、それぞれ異なる宗派の者は近づいて礼拝することも許されない。また、キリスト教原始の姿を留めているにもかかわらず、力の弱い少数派であるコプト派などは、教会に祭壇を設けることもできず、ゴルゴダの丘を見わたせる離れた場所に祭壇を設けているだけだという。

 考えてみれば、歴史的に見ればイスラム教よりもキリスト教のほうが宗派を問わず排他的で独善的だ。フランスをはじめヨーロッパ各地では、同じキリスト教徒に対してすら「異端」として「十字軍」の名のもとに殺戮が行われた。その後の時代にみられたキリスト教各派の対立が原因の宗教戦争は、イスラムの歴史にはそれほど多く見られない。

 イスラム教徒はかつて「コーランか貢納か剣か」といったように、布教がすなわち征服活動であった。もし相手の部族がまるごとイスラム教徒になるなら、戦うどころか同胞として迎えいれたのだ。 また、被征服民がその信仰を守ることも認め、「ジズヤ」という人頭税さえ納めれば、固有の信仰を守ることができたという。もしもそれをどちらも拒否したときにのみはじめて「剣」すなわち戦いとなった。
 イスラム教はアラブの民族宗教としてではなく、イラン人、トルコ人をはじめ、アジアからアフリカ、ヨーロッパまで広まった要因のひとつは、その寛容性にあった。残念ながら現在のイスラム教徒がそこまで寛容だと言い切ることはできない。その後の歴史的経緯から、他宗教には非妥協的になった部分もあるのかもしれない。しかし、キリストの教えにもムハンマドの教えにも通じる「神の前の平等」という点では、キリスト教社会よりはずっとましな歴史を持っている。
 イスラムは民族や文化は本当に多様であるし、スンナ派とシーア派の教義の対立もあるにせよ、ひとつのムスリムとして同胞意識がある。これがイスラム諸国の人々のアフガンやイラクへの同情の根本にあるのだろう。

 イラク情勢の泥沼化はとどまるところを知らない。相次ぐ外国人の誘拐、イラクの民間人に多くの死者が出たファルージャでの衝突に加えて、米軍によるイラク人捕虜への虐待の事実も明らかになってきた。これは一部では予想されていたことではある。ブッシュがイラク戦争の失敗から大統領選挙で敗北するならそれはそれでかまわないのだが、この瞬間にも、罪もない多くの人々が無差別テロや米軍の攻撃によって傷つき倒れている。

 ブッシュはアフガンやイラクでの戦争のおり、神の名をよく口にした。口が滑って「十字軍」なんて言ってしまいあわてて撤回したこともあったが、アメリカに追随する国々は、まさにローマ教皇による十字軍の呼びかけに応じた各国の国王・諸侯のようだ。彼らは破門を恐れるあまり、あるいは私利私欲を満たすため、イスラム教徒を女子供関係なく虐殺した。十字軍の記憶は、その後の英仏、そして米国の圧力を受けつづけた彼らにとって、まだ忘れられた歴史上の出来事ではないのだ。

 ブッシュが十字軍を気取ってイラクやアフガンを攻撃し、多くの罪亡き人々を死に追いやっている一方、テロリストだって自らの行為を「ジハード」として正当化している。これではブッシュがテロリストと同じ地平に立っていることを自ら証明しているようなものだ。

※2003年11月21日に個人Webに書いたものを改稿。

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科学と魔法

 ロバート・ゼメキス監督、ジョディ・フォスター主演で映画化された「コンタクト」。カール・セーガンの小説を大筋でなぞっているが、ゼメキスの映画とセーガンの小説は物語の決定的な部分で異なっている。

 映画好きの同僚は、自分の見た素晴らしい映画の上位にこの映画をあげた。彼の意見では、劇中のパーマー・ジョスの言葉「愛していたことを証明してみてほしい」ということを手がかりに、エリナーがポッドで体験した超越的な体験とならべ、「言葉では伝えられない真実もある」というのがこの映画のメッセージだという。
 無神論が徹底的に嫌われるアメリカでは、この結論は支持されるだろう。しかし俺の意見は彼の意見とは異なるものだ。
 俺もビデオテープに加え最近DVDも購入したくらいこの映画は大好きな作品だ。この物語は映画になっただけでも価値があると思っている。だが映画ではゼメキスはエリナーに「神さま」と言わせているところは個人的に納得がいかない。セーガンの原作では、エリナー・アロウェイ博士は、最後まで科学的実証主義の立場を捨てていない。

 「じゅうぶんに発展した科学は、魔法と区別がつかない」というのはアーサー・C・クラークの至言だ。高度な技術も、未開の人類には魔法にしか見えない。それを理解できるかどうかはその時代の人間の認識の限界に依存しているということであろう。
 もちろん認識できなかったからといって科学的根拠がないということにはならない。科学者の「他の惑星に生命がいるか」という問いかけと、宗教を信じられない者の「神は存在するか」という疑問は、一見似ているようだ。「存在することを(今のところ)証明できない」という点では同じだからである。しかし「存在しないことを立証できない」からそれが「存在する」という立場には、宗教者ならともかく科学者を標榜するものなら少なくとも絶対に立つことはできないはずだ。

 クラークの先の言葉は、科学文明と呼べるものをたかだか数百年しか持たない人類が、恒星間の旅行を可能とするような超越的なテクノロジーと接したときの理解の困難さを述べている。たとえば時間旅行して、モンゴルが席巻していた13世紀のユーラシアに旅し、当時の人間にモンゴル打倒の新兵器として原子爆弾の作り方を教えるとしよう。その原理である核物理学を理解させるのにそれくらいの時間がかかるだろうか。おそらく無限に近い時間を要するにちがいない。彼は断じて科学と魔法を混同したり同じものだと言っているのではないのだ。
 ベーコンやデカルトを持ち出すまでもなく、経験に立脚しつつ、演繹的に思考していくことが科学的思考の根本だ。また、SFの描く未来や過去、あるいは別の惑星や別の宇宙の異世界にも、その背後に現在の科学水準からの合理的推測、あるいは現実に対するエクストラコラボレーションがある。それがなければ単なるファンタジーに終わってしまい、ジャンルを逸脱してしまうように思う。かつてSF専門誌で戦わされた「ファンタジーはSFか否か」といった論争が思い出される。

 デカルト以降の「科学的思考」については、80年代に構造主義やポスト・モダニズムあたりにずいぶん攻撃されたが、彼らの思惑とは裏腹に科学は今も発展しつづけている。科学の発展を否定しても意味がないばかりか、現実に存在するさまざまな問題の解決をも遠ざける空虚な行為だ。 それにしても、鳥でもイカロスでない人間は、空を飛ぶことはできないはずだったのだが、およそ100年前に稚拙な技術によってとうとう空を飛び、それから一世紀もたたないうちに月面までその足を伸ばしてしまった。天にまします我らが神は、無礼な人間から見つからないように、恥ずかしげにどこかにお隠れになったとでもいうのだろうか。
 アメリカの一部の科学者には、深宇宙の観測や核物理学の分野で、ゆるぎない証拠を見出して科学的に神の存在を証明しようとしている人々もいるという。こういう動機は俺の好みではないが、宗教上の問題に科学者が接近するのなら、こういうアプローチでなくてはならないだろう。もしかれらの研究になんらかの成果があったとき、俺のような無神論者は悔い改めなくてはならないのかもしれない。

 原作者のセーガンは晩年、ダライ=ラマと対談するなど、宗教と科学の問題について興味深い探求を行っていたが、残念ながら1996年にガンで亡くなってしまった。彼の晩年の著作である「惑星へ」(原題"Pale Blue Dot")では、彼の科学者としての宗教へのアプローチが伺える。と同時に、占星術などの現代にも生きる神秘主義や、いわゆるUFO信者などの唱える「エセ科学」に対しても鋭い批判を加えている。

 映画に話を戻すと、その冒頭でも描かれたように、子どもの頃冥界とさえ無線交信しようとしたエリナーに、個人的に非常に親近感を感じた。俺がまだ幼稚園に通っていた頃、電気工学を生業とした父からトランシーバを玩具として与えられ、初歩的な無線通信にわくわくしたことを思い出したのだ。父はそれを分解して見せてくれ、なにやら小さな部品の集合体であって、それ自体が不思議な力を有しているわけではないことを示してくれた。それからまもなく、父は白血病で他界した。

※個人Webよりblog用に改変して転載。
 じつは昨日5月4日は父の命日にあたる。父の死んだときの年齢を、俺はもうすで越えてしまっている。

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2004.05.03

ハングアップ

 深夜に非常にまじめなエントリを長文で書き上げ、さあアップロードというところで、ノートPCがハングアップ。休日ということで、ちゃぶ台の上で無線LANにつないだ富士通cのWindows98搭載の古いA5サブノートでだらだらと書いていたが、それが仇となった。文章そのものはエディタで書いてけれど、何度も推敲したので知らず知らずのうちにメモリを圧迫してしまったらしい。Winndows98ではメモリ不足は大敵だ。保存する前にハングアップしたので2時間あまりの作業がパァになってしまったよ。

 憔悴して今日一日寝てすごした。雨も降ってるし外出する気にもならん・・・。

 これらの機種は小さいのでモバイル用途では大活躍してくれた。H"と連携して外出先でネット接続したり、家で無線LANによるネットWeb閲覧に使ったりしてきたが、さすがに一度WindowsNT系OSの安定度に触れると、普段は使う気がしなくなっていたのでこのところなかば放置気味だった。久々に使ってやろうと思ったのが失敗だった。

 普段は自宅のデスクトップでWindows2000上で作業をしている。Windows2000搭載ののVAIOノートを職場に置きっぱなしなので、家にあるノートはWindows95とかWindows98の古いB5やA5のノートばかり。二度と長い文章はこれらのPCでは書かないと決めた。とはいえ、捨てるのは惜しい。
 携帯電話の進歩で、ネットくらいPCがなくてもできるようになった。でも俺はやっぱり個人のための携帯頭脳ともいうべきB5やA5のサブノートPCには非常に惹かれるものがある。

aln1.jpg
これはPanasonicのAL-N1(B5サブノート)

OSを軽いものに代えて長く使おうと思っても、最近のLinuxディストリビューションはXを使うとWindows以上に軒並み重いんで、MMXPentium200MHzではWindows95以上に使いにくくなってしまうなぁ・・・。

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