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2004.05.05

科学と魔法

 ロバート・ゼメキス監督、ジョディ・フォスター主演で映画化された「コンタクト」。カール・セーガンの小説を大筋でなぞっているが、ゼメキスの映画とセーガンの小説は物語の決定的な部分で異なっている。

 映画好きの同僚は、自分の見た素晴らしい映画の上位にこの映画をあげた。彼の意見では、劇中のパーマー・ジョスの言葉「愛していたことを証明してみてほしい」ということを手がかりに、エリナーがポッドで体験した超越的な体験とならべ、「言葉では伝えられない真実もある」というのがこの映画のメッセージだという。
 無神論が徹底的に嫌われるアメリカでは、この結論は支持されるだろう。しかし俺の意見は彼の意見とは異なるものだ。
 俺もビデオテープに加え最近DVDも購入したくらいこの映画は大好きな作品だ。この物語は映画になっただけでも価値があると思っている。だが映画ではゼメキスはエリナーに「神さま」と言わせているところは個人的に納得がいかない。セーガンの原作では、エリナー・アロウェイ博士は、最後まで科学的実証主義の立場を捨てていない。

 「じゅうぶんに発展した科学は、魔法と区別がつかない」というのはアーサー・C・クラークの至言だ。高度な技術も、未開の人類には魔法にしか見えない。それを理解できるかどうかはその時代の人間の認識の限界に依存しているということであろう。
 もちろん認識できなかったからといって科学的根拠がないということにはならない。科学者の「他の惑星に生命がいるか」という問いかけと、宗教を信じられない者の「神は存在するか」という疑問は、一見似ているようだ。「存在することを(今のところ)証明できない」という点では同じだからである。しかし「存在しないことを立証できない」からそれが「存在する」という立場には、宗教者ならともかく科学者を標榜するものなら少なくとも絶対に立つことはできないはずだ。

 クラークの先の言葉は、科学文明と呼べるものをたかだか数百年しか持たない人類が、恒星間の旅行を可能とするような超越的なテクノロジーと接したときの理解の困難さを述べている。たとえば時間旅行して、モンゴルが席巻していた13世紀のユーラシアに旅し、当時の人間にモンゴル打倒の新兵器として原子爆弾の作り方を教えるとしよう。その原理である核物理学を理解させるのにそれくらいの時間がかかるだろうか。おそらく無限に近い時間を要するにちがいない。彼は断じて科学と魔法を混同したり同じものだと言っているのではないのだ。
 ベーコンやデカルトを持ち出すまでもなく、経験に立脚しつつ、演繹的に思考していくことが科学的思考の根本だ。また、SFの描く未来や過去、あるいは別の惑星や別の宇宙の異世界にも、その背後に現在の科学水準からの合理的推測、あるいは現実に対するエクストラコラボレーションがある。それがなければ単なるファンタジーに終わってしまい、ジャンルを逸脱してしまうように思う。かつてSF専門誌で戦わされた「ファンタジーはSFか否か」といった論争が思い出される。

 デカルト以降の「科学的思考」については、80年代に構造主義やポスト・モダニズムあたりにずいぶん攻撃されたが、彼らの思惑とは裏腹に科学は今も発展しつづけている。科学の発展を否定しても意味がないばかりか、現実に存在するさまざまな問題の解決をも遠ざける空虚な行為だ。 それにしても、鳥でもイカロスでない人間は、空を飛ぶことはできないはずだったのだが、およそ100年前に稚拙な技術によってとうとう空を飛び、それから一世紀もたたないうちに月面までその足を伸ばしてしまった。天にまします我らが神は、無礼な人間から見つからないように、恥ずかしげにどこかにお隠れになったとでもいうのだろうか。
 アメリカの一部の科学者には、深宇宙の観測や核物理学の分野で、ゆるぎない証拠を見出して科学的に神の存在を証明しようとしている人々もいるという。こういう動機は俺の好みではないが、宗教上の問題に科学者が接近するのなら、こういうアプローチでなくてはならないだろう。もしかれらの研究になんらかの成果があったとき、俺のような無神論者は悔い改めなくてはならないのかもしれない。

 原作者のセーガンは晩年、ダライ=ラマと対談するなど、宗教と科学の問題について興味深い探求を行っていたが、残念ながら1996年にガンで亡くなってしまった。彼の晩年の著作である「惑星へ」(原題"Pale Blue Dot")では、彼の科学者としての宗教へのアプローチが伺える。と同時に、占星術などの現代にも生きる神秘主義や、いわゆるUFO信者などの唱える「エセ科学」に対しても鋭い批判を加えている。

 映画に話を戻すと、その冒頭でも描かれたように、子どもの頃冥界とさえ無線交信しようとしたエリナーに、個人的に非常に親近感を感じた。俺がまだ幼稚園に通っていた頃、電気工学を生業とした父からトランシーバを玩具として与えられ、初歩的な無線通信にわくわくしたことを思い出したのだ。父はそれを分解して見せてくれ、なにやら小さな部品の集合体であって、それ自体が不思議な力を有しているわけではないことを示してくれた。それからまもなく、父は白血病で他界した。

※個人Webよりblog用に改変して転載。
 じつは昨日5月4日は父の命日にあたる。父の死んだときの年齢を、俺はもうすで越えてしまっている。

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コメント

こんにちは。
ご無沙汰しています。
連休は忙しくて、ゆっくりPCを見る時間がなかったのですが、
今日、久しぶりに、拝見して、またまた感動!!
うんちく深い文を読んで、
私自身の身内からエネルギーが出てくるように、打ち震えたり、
お父様のエピソードには、ちょっぴりウルウル。
素敵なお父様だったのですね、、、
私も、去年12月亡くなった父を思い出しました。
私の中では限りなく優しい父でした。

素敵な文章。
今日も有り難う。
お元気で!!

投稿: せとともこ | 2004.05.06 16:01

コメントありがとうございます。

 科学がどうのこうのと書いていますが、本当は法学部出身で科学は門外漢です。でも「科学の進歩がが人間社会をダメにした」とか、「近代合理思想の克服」とかいわれるとやはり反発してしまいます。
「科学の子」がアトムなら、私は山下達郎の歌にもあるような「アトムの子」でありたいと思っています。

 報道によると、子どもたちの理科離れが深刻だということです。かなりの小学生が天動説を信じているというニュースを聞いたりすると、日本の将来が心配になってきます。科学者も経済的効率や商品性だけでなく、お金にならなくても、多くの子どもたちが憧れるような壮大な実験や夢のある研究をしてほしいものですね。もともと子どもたちはそういう話が大好きなはずです。

 私も子どもたちに接する機会が多い職業です。ひとつひとつのことをじっくりと考える楽しみや、実験と発見の喜びというものを、ひとりでも多くの子どもたちに知ってほしいと思います。

いまこそ瀬戸さんのの出番ですね。

投稿: Rough Tone | 2004.05.07 04:28

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» いろいろあって旅に出ます。 [世界の不要な半分]
「夢みる星にふる雨は…」三岸せいこ、集英社。  Any sufficientl [続きを読む]

受信: 2004.05.05 13:57

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