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2004.05.21

血染めのパンツ

 イスラエル軍によるエルサレムでのデモ隊への砲撃のニュースに怒りすぎたか、昨日の夜、血尿が出た。急性高血圧で入院したとき以来数年ぶりなんでショックである。パンツが血で汚れるのはまるでよろしくない病気にでもかかったようでたまらんものがある。最近仕事が多い上、さらに今週末と来週末は休みを返上して仕事を入れちまったのでなかなかつらい。

 あと、小泉訪朝に同行取材させないぞと、官邸が日テレを恫喝した事件。これももうちょっと問題になってもいいんじゃないかな。隠しダマの「コメ支援」をスクープされ逆ギレし「ニュースソースを教えれば同行を許す」なんて脅すのには、いったい今は何時代なんだよと思わせるものがある。さすがに行き過ぎを認めたようだが、こういうのが続くと腰抜けマスコミは萎縮するだろうな。

 最近、他人のblogに不快なコメントを書きちらすやつが殖えているみたいだ。そういうやりとりをあちこちで見かける。書き込む奴らはどんなBBSでも2ちゃん化してしまうんでタチが悪い。管理者がコメントを削除したら「言論弾圧」だと。笑わせるよ。

 俺のblogには批判的トラックバックならむしろ望むところだけど、いまのところコメントによる荒らしはまだない。でもこのスタンスだから時間の問題かもね


【追記】
 ある人に「血尿でパンツが汚れる」って言ったら「あなた、おもらししてるんですか」といわれた。たしかにそう思われる書きかただった。実際は排尿のときだけではなく、尿道から出血して下着を汚していたのだが・・・。

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コメント

 りーとさん、サイトご紹介ありがとうございます。年齢的には生活習慣病を悪化させるにはまだ早い年齢だと思うので、自分の自己管理の至らない点を感じさせられます。ただ、○欲減退など、降圧剤の副作用は困るなあと思ってます。

投稿: Rough Tone | 2004.05.22 10:27

Rough Toneさん、こんばんは。

血尿て!大変ですね。。。お大事になさってください。
私の父も高血圧ですが、強いストレスを感じると、どうしても血圧が高くなってしまうようです。今の世の中、ストレスを感じるなって方が難しい気がしますが、上手く発散させて、早く元気になってくださいね。

>こういうのが続くと腰抜けマスコミは萎縮するだろうな

私もそう思います。言論弾圧って、こういう事を言うのですよね。日本の政府もついにこんな台詞を言うようになったかと、空恐ろしい気持ちがします。この先、一体どうなるんでしょうね。

投稿: akane | 2004.05.23 02:34

AKANEさん、ありがとうございます。
血圧は、なんとか収まりつつあります。

 心の底からうれしくなるニュースって、最近はほとんどないですね。
 ベルリンの壁が壊され、東西市民が握手した瞬間や、南アフリカでマンデラ大統領が誕生したとき、ニュース映像の中で喜ぶ人々を見て、こちらまでうれしくなったのを覚えています。時代が大きく動いているのをこの眼で見ている感動がありました。

投稿: Rough Tone | 2004.05.24 03:26

明らかな侮辱に対して寛容でいられる姿勢は、
人として優れているかも知れません。
しかし、それがただちに(たとえば)
「穏やかな平和」に向けた努力であるとは思えません。

> 削除したら「言論弾圧」

管理人にとって不快な文章とは、
つまり諸々の人格攻撃や人権侵害において顕著でしょう。
いたづらに愚弄をたくらむ内容にあっては、
一も二もなく削除してよい性質のものです。
(ただし無視できぬ内容には、最後まで真摯であるべきです)

発言するからには
(批判や削除を覚悟する意識としての)自己責任が
ついてまわると考えます。
(流行語なので、この語を使うのに気が引けます…)

無責任な言動・行動とは、
わたしたちの先人が、どのような社会状況と時代の中で、
どのような言動、行動、表現をして来たかを
一切無視する性質のものです。

文学・社会など、今日の問題や、
あるいはそれは自然環境であってもよいのですが、
それらを真面目に学んだあとの自己の掘り下げ、
問題を誠実に受けとめ、自分の言葉で考え、語りきるということ、
そうした哲学のない悪意の文章、

「問題をいかにとらえ、どのように書くか」という
文筆家の基本的な姿勢が捉えられていない幼稚さには
健全な批判をこめて、
たとえば削除という選択肢があってよいものと考えます。

容易に「弾圧」と言う輩は、
甘えを言うのに過ぎぬのです。

弾圧とは、個人の内心が
個人では抗しきれぬほどの巨大な圧力によって蹂躙され、
人を人と思わぬ仕方で、心身ともに打ち砕かれることで、
ひとつの人格を再起不能に陥れることが可能な
暴力に他なりません。

おのれが個人攻撃をほしいままにしておきながら、
それを削除されたからと言って
ただちに「弾圧」を叫ぶのは、
倨傲というより、狂気の沙汰としか思われない。

発言したおのれは”ある種の匿名性”によって守られ、
「穏やかな平和」を享楽しているのだから、
「弾圧」というのも、何やら暢気な話になってしまう。

お互いが、穏やかな平和のなかで暮らすということは、
個人間の対立、ひいては自己のなかの対立について、
どう向き合うかにかかわってくる問題です。

古典から引き継がれて、現代文学のテーマにもなりそうな、
壮大なテーマかと思われます。

「穏やかな平和」の究極の理想点
つまり「不戦平和主義」が、
『口汚い侮辱に対しても寛容を貫くのかどうか』
寛容であるために、不戦平和主義が揺らぐジレンマ

…という問題にも絡んでいると思います。

投稿: coho | 2004.05.24 03:51

cohoさんこんにちは

>>管理人にとって不快な文章とは、
>>つまり諸々の人格攻撃や人権侵害において顕著でしょう。
>>いたづらに愚弄をたくらむ内容にあっては、
>>一も二もなく削除してよい性質のものです。

>>「穏やかな平和」の究極の理想点
>>つまり「不戦平和主義」が、
>>『口汚い侮辱に対しても寛容を貫くのかどうか』
>>寛容であるために、不戦平和主義が揺らぐジレンマ

 私のblogは今のところいわゆる「荒らし」にはあっていませんが、私のよく拝見しているblogには、正視できないような書き込みが見られるものもあります。TBだけでなくコメントを受け付けている以上、他の人の意見には耳を傾けるべきなのでしょうが、匿名で罵詈雑言などを書き散らし、建設的議論ができない人々には「戦う民主主義」みたいな立場で最悪の場合発言の削除で対応してもいいのではないかと思っています。私の知る限りでも、ネット上で祭りにさらされ、不本意にも個人Webやblogを閉じてしまわれた方が何人もいらっしゃるので、こういう攻撃を見ると許せないという気持ちになってしまいます。

 表現上多少過激な文章も、それが言論である限りある程度許されるべきだと思っています。しかし、web開設者の人格を罵倒するような罵詈雑言の類はまともな言論であるとはいえません。

 私はというと、なにかひとこと書くのにもいつのまにか体裁を繕っているほうだと自分でも思うので、思ったことを正直に書ける方のblogは清清しいなと思っています。

 また、解説者のお人柄なのか、どんな内容を書いても建設的な議論になるblogをお持ちの方もいらっしゃってうらやましく思うこともあります。

投稿: Rough Tone | 2004.05.25 02:13

(はじめに)
本来ならば、
冒頭に挨拶をすべきところを、
つい本筋の綴りに目が行き過ぎて、
礼を欠いた形になってしまいました。
申し訳なく思います。

Rough Toneさま、こんばんわ。
----
ネットをめぐっておりますと、たしかに
「正視できないような書き込み」
に、出会うことがあります。

自分であれば、到底承服しかねる
根拠も辻褄も無視した文面で、
先言を受けての論拠はおろか、
発言者の人格までをも痛罵する者が絶えません。

こうした卑怯な方法が、
堂々と掲げられているのを見るにつけ
「許せない」のは、偽ることができない
さし迫った感情であります。

一方で「言論の自由」と言われます。
人格の精神的独立を保障するものとして
たいへん優れた考えです。

持論を展開するにあたり、
広くコメントを受け容れると言うことは、
情報・知識の交換と獲得を通して
言論が洗練されることを願うもので、
虚偽や不正が”健全に”批判され、
新たな手がかりを得るために必要なことです。

しかし、保障された自由のなかで、
言論が不当に他人の名誉を害し、
あるいは社会生活に具体的な危険を誘発し、
また、他人の生命や身体の安全を脅かすときには、
(法的)責任が追及されなければいけません。

発言者は、この点で、
確固としたモラルと責任をもって
言論に臨まねばならないでしょう。
(通り一遍のことを申してすみません)

現憲法の保障する諸自由は、
各人の自由な発想や討議によって、
社会全体があるいは反省し、
より正しい判断に到達することを期待しています。

それゆえ、個人レベルの対話の中では、同意にしても、
いささか温度差があることを確認しあうべきです。
(そこが対話の面白さでもあると感じています)

ここで「言論の自由」の必要性について再び帰ってきます。
(たとえば温度差を埋めるような)健全な言論のあることを、
自分は願う者であります。

「マックスウェルの悪魔」の構造は、
科学では仮説に過ぎませんが、
ある種の政治原理や個人の心中で、
温度差を操作する存在として顕現しうるかも知れませんね。
悪魔は、とかく”仕切りや境”が好きそうです。
脳内での仕切りは、さしずめ「バカの壁(?)」。
ちょっと論の飛躍が過ぎましたでしょうか。
(…すみません。ちょっと無理しました)

国家権力が
(あるいは強い影響力を持つ社会的団体、あるいは諸圧力が)
統制や処罰による干渉、抑圧を加え、
個人の精神的自由を抑えることは、
憲法の認めるところではないはずです。

個人と、個人のゆるやかなかかわりが、
諸圧力に対して監視を続けていく姿勢が
民主主義の有益と考えています。
----
たとえば社会的に有力な集団が、
その組織的圧力を用いて
一定の言論の自由を脅かすことは
重大な問題です。

氏が現記事で申されました
「報道規制」の件についてです。
まさに「許せない」ことです。

戦前におけるはげしい思想統制、
言論弾圧をきびしく批判して、
戦後はじめて憲法に規定された
諸自由を向こうに投げてしまうような仕方に
「テロへの恐怖」さながらの不安を憶えました。

現実は、SFではないからです。

この問題の終結が
「笑って許して」
という程度で済むような段階にあるのなら、
この国は、すでに「回帰」している
と言ってよいのかもしれません。

それを思うと、頭痛がして仕方ありません。

投稿: coho | 2004.05.25 03:50

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