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2004.05.05

神々の名のもとに

 イスラム教の開祖ムハンマド(マホメット)は、自分のことをモーセ、イエスに次ぐ預言者であるといった。まあ、「最後で最高の預言者」っていってるところはなんとなく不遜に感じるが、それでも彼はユダヤ教徒、キリスト教徒を「啓典の民」と呼んで尊重したのである。
 無論これはムハンマドの論理であって、ローマカトリックをはじめとするキリスト教会はまったくこれを認めていない。ユダヤ教はともかく、キリスト教ではギリシア正教もプロテスタントもローマカトリックと同じアタナシウスの流れを汲む三位一体説をとっており、それによるとイエスは「預言者」ではなく「神」そのものだ。しかし、少なくとも開祖ムハンマドの認識はアッラーもエホバ(ヤハウェ)も同一の神だったわけだ。

 パレスチナ問題の象徴、聖地エルサレム。ここはユダヤ教、キリスト教、イスラム教の聖地として知られている。ユダヤ教の聖地がヘブライ王国の王宮の壁の一部が残るという嘆きの壁、イスラム教の聖地がムハンマドが昇天したという場所にある岩のドーム。キリスト教における聖地のモニュメントはなにかというと、かつてイエスが処刑されたゴルゴダの丘に建てられた聖墳墓教会だ。
 この教会はまことに複雑で、内部はギリシア正教とカトリックの祭壇が別個にあり、それぞれ異なる宗派の者は近づいて礼拝することも許されない。また、キリスト教原始の姿を留めているにもかかわらず、力の弱い少数派であるコプト派などは、教会に祭壇を設けることもできず、ゴルゴダの丘を見わたせる離れた場所に祭壇を設けているだけだという。

 考えてみれば、歴史的に見ればイスラム教よりもキリスト教のほうが宗派を問わず排他的で独善的だ。フランスをはじめヨーロッパ各地では、同じキリスト教徒に対してすら「異端」として「十字軍」の名のもとに殺戮が行われた。その後の時代にみられたキリスト教各派の対立が原因の宗教戦争は、イスラムの歴史にはそれほど多く見られない。

 イスラム教徒はかつて「コーランか貢納か剣か」といったように、布教がすなわち征服活動であった。もし相手の部族がまるごとイスラム教徒になるなら、戦うどころか同胞として迎えいれたのだ。 また、被征服民がその信仰を守ることも認め、「ジズヤ」という人頭税さえ納めれば、固有の信仰を守ることができたという。もしもそれをどちらも拒否したときにのみはじめて「剣」すなわち戦いとなった。
 イスラム教はアラブの民族宗教としてではなく、イラン人、トルコ人をはじめ、アジアからアフリカ、ヨーロッパまで広まった要因のひとつは、その寛容性にあった。残念ながら現在のイスラム教徒がそこまで寛容だと言い切ることはできない。その後の歴史的経緯から、他宗教には非妥協的になった部分もあるのかもしれない。しかし、キリストの教えにもムハンマドの教えにも通じる「神の前の平等」という点では、キリスト教社会よりはずっとましな歴史を持っている。
 イスラムは民族や文化は本当に多様であるし、スンナ派とシーア派の教義の対立もあるにせよ、ひとつのムスリムとして同胞意識がある。これがイスラム諸国の人々のアフガンやイラクへの同情の根本にあるのだろう。

 イラク情勢の泥沼化はとどまるところを知らない。相次ぐ外国人の誘拐、イラクの民間人に多くの死者が出たファルージャでの衝突に加えて、米軍によるイラク人捕虜への虐待の事実も明らかになってきた。これは一部では予想されていたことではある。ブッシュがイラク戦争の失敗から大統領選挙で敗北するならそれはそれでかまわないのだが、この瞬間にも、罪もない多くの人々が無差別テロや米軍の攻撃によって傷つき倒れている。

 ブッシュはアフガンやイラクでの戦争のおり、神の名をよく口にした。口が滑って「十字軍」なんて言ってしまいあわてて撤回したこともあったが、アメリカに追随する国々は、まさにローマ教皇による十字軍の呼びかけに応じた各国の国王・諸侯のようだ。彼らは破門を恐れるあまり、あるいは私利私欲を満たすため、イスラム教徒を女子供関係なく虐殺した。十字軍の記憶は、その後の英仏、そして米国の圧力を受けつづけた彼らにとって、まだ忘れられた歴史上の出来事ではないのだ。

 ブッシュが十字軍を気取ってイラクやアフガンを攻撃し、多くの罪亡き人々を死に追いやっている一方、テロリストだって自らの行為を「ジハード」として正当化している。これではブッシュがテロリストと同じ地平に立っていることを自ら証明しているようなものだ。

※2003年11月21日に個人Webに書いたものを改稿。

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コメント

トラックバックありがとうございます。参考になりました。宗教を利用するものも憎むべきですが、利用される宗教も、宗教としての意義が問われるべきだと思います。聖職者から宗教を利用するなという声があがって当然と思いますが、聖職者自らが利用しているのが現実と思います。

投稿: yoshihiroueda | 2004.09.09 05:51

yoshihirouedaさんこんにちは
古い記事をトラックバックしてすみません。
blog興味深く拝見しています。

>>聖職者から宗教を利用するなという声があがって当然と思いますが、
>>聖職者自らが利用しているのが現実と思います。

 日本には昔、本地垂迹説というものもあり、仏と神を同一視していた時期もありましたよね。おっしゃるように日本人らしいユニークな考え方だと思います。

 多神教の寛容さは私も興味があります。インドでは釈迦もヒンドゥー教の神々に列せられていますし、逆に日本ではビシュヌ神が毘沙門天、シヴァ神が大自在天、ブラフマ神が梵天として仏教にとりこまれていますね。

 せめて彼ら「啓典の民」も、彼らの唯一神をじつはそれぞれ同じものなのだということに気づいてくれたり、理解しようとしてくれたらよいのですが。

 じつは私自身は無神論に立脚しています。そうなった理由はわたしの育った環境にもあると思っていますが、困った人や悩んでいる人、悲しんでいる人から利益を得る神なら、私は拒否します。

 以前のエントリで引用し、せとともこさんのところにもトラックバックさせていただいたランボォの詩は、私のシンパシによるものです。

投稿: Rough Tone | 2004.09.10 23:04

TB有り難うございます。
本地垂迹説は、もしかしたらキリスト教・ユダヤ教に対するイスラム教の姿勢が、情報として日本に伝わった結果かもしれないと、時々考えておりました。
キリストが言った言葉に「私は平和をもたらす者ではなく、争いをもたらす者である」というような言葉がありましたが、勿論、宗教の純粋さを求めていけば争いになっても仕方がないだろう、という意味ですが、エバンジェリカルは「米国による世界征服の正当性」と考えている人までいるようで、違う解釈が多い。
似た言葉が当然、イスラム教にもあるのですが、これをワッハーブ派等が政治的に利用してきたと思います。今は、テロリストと抵抗運動をしている人々の一部が。

過去の権威ある人の言葉を、恣意的に解釈して周囲を誤った方向へ導く人々は、困ったものです。

日本人も、言葉を都合良く言い換えて他人を攻撃するのに利用しますしね。ホテルの玄関に滑り止めがないため転倒で怪我をした人に対して、ホテル側が「自己責任」と答えていた。こういうやり方が最近多くなりましたね。

投稿: りーと | 2005.01.01 14:57

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エバンジェリカルやキリスト教原理主義について、主に米国人の潜在的罪悪感および潜在的不安感を合理化し、自己正当化を図る装置として、機能しているのではないかと考察す... [続きを読む]

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