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2004.05.06

認識と実在

 5月2日付の毎日新聞「今週の本棚」欄で、哲学者の村上陽一郎氏が、日高敏隆「動物と人間の世界認識」の書評を行っている。彼はこの中で、自身の主張である「認識の多元性」を高らかに主張し、日高氏の著作によって自らの主張の正しさが証明されたかのように誇らしげに書いている。さらに「科学は唯一、絶対の真理の『世界』を追求している」という「信念」が普及しているため、「科学者の一部」には、自分の主張を理解せず批判にならぬ批判をされ恨みをもっている」と主張する。

 まあこれは書評欄なので、彼の得意の「科学者悪者論」は控えめであるが、日高氏を「科学者の中にも、認識された『世界』というものについて、これだけの洞察をする人が現れた」と称え、「率直に喜んでいる」と書くことで、日高氏以外の「その他の科学者」を間接的に批判することは忘れていない。

 村上氏の「認識の多元性」とは、氏の言葉によれば概要はこうだ。

「動物の認識する『世界』と、人間の認識する『世界』は異なる。また、同じ人間の認識する『世界』でも、時代や共同体が違えば、いろいろであり得る」

 氏のいうことは自然科学的に見てもあたりまえといえばあたりまえである。人間と他の生物では感覚を受容する器官が異なるのは当然だし、感覚に対する反応が生育環境や文化、宗教などの差異によって、人ごとに認識が異なることも当然ありえる。しかし科学者は「認識されたもの」と「客観的実在」と混同してしまうようなことはない。

 「認識の多様性」を科学者が認識していないという前提は、一種の決め付けあるいは論理のすり替えではないだろうか。まるで「世界を認識する主観が多様」であることと「客観的な世界などというものはそもそも存在してない」ということを意図的に混同させようとしているかのようだ。これではまるでソフィストの詭弁だ。

 彼は自身のアメリカでの経験を例に挙げ、「日本語にあるアブラゼミやクマゼミなどの区別」が「日常語としての米語」になく、ただ六月に泣き出すセミ「ジューン・バグ(六月ムシ)」と呼ばれるだけであるということをもって、「言葉が無いということは、しばしば、その認識の『世界』では「意味あるものとして認められていない」ことになると書き、「認識された『世界』は人間にとって、動物にとって、ある意味を持ちます。私たちは、そうした「世界の意味づけ」のなかで初めて、生きているのだと思います」と結論づける。

 人間が認識した物事と、それに与えられる言葉(名前)の問題は、mossarinさんのblogでも書かれていたことでもあり、さまざまな考察が可能だと思う。人間は「世界の意味づけのなかで初めて生きている」のではなくむしろ「生きているから世界に意味づけを行う」のだと俺自身は考えている。

 村上氏のような立場は、誰も知らない深い森の奥で一本の木が倒れても、誰の知るところともならなければ、その木は存在しなかったのと同じことである」という唯我論の有名な命題とかわりがないように思える。
 俺は幼いころ、不遜にも、この世界は俺の意識のある間だけ存在を許されているものであって、俺が睡眠におちる瞬間に溶けてなくなるのではないかと考えたことがあった。しかし成長するにつれて、この世界というものは、じつは自分の意識とはかかわりなく存在しているのだということを、世界が思ったほど自分の思うようにならないという事実によって、まさに経験的に思い知らされた。カール=セーガン風にいうと、自分は「宇宙を思うままに操る神」から、「宇宙の中の一瞬だけ存在を許された矮小な存在」へと「大降格」されたのだ。

 唯我論に代表されるいわゆる主観的観念論は、「経験にもとづく演繹的思考」を旨とする科学的な思考法とはそもそも相容れない論理である。科学者が彼のような立場に立たないのは、その探求の手段からも目的からも当然ではないか。

 村上氏は著書『新しい科学論』の中で「科学の知識は累積もしなければ進歩もせず客観性もない」と記している。彼は科学者の反論を「批判にならぬ批判」と切って棄てるが、実際は彼が科学の思考方法に先に「イチャモンをつけた」のであって、科学者の側が先に彼を批判したのでないことだけは明らかだ。村上氏は、日高氏の言葉を借りて、「科学もまた私たちが得た『意味づけの世界』」「イリュージョン」にすぎないと主張し、「科学的思考」がまるで宗教の教義かなにかであるように貶める。いったい何が狙いなのかと勘ぐりたくなる。

 このような氏の観点に立ち、「名前をもっていない」だけで、その存在をも否定されることになるというのなら、名も知らぬ遠いイラクの民衆がアメリカ軍の攻撃によっていくら死んでも、我々の知るところとならなければそれは存在しないも同然だということだ。また、敵対するアラブとイスラエルには、それぞれイスラム教とユダヤ教という「世界」がそれぞれに存在していて、人間とモンシロチョウの認識する「世界」が異なるように、永遠に互いの共通項は見つからないということになる。少なくとも俺はこのような立場はとらない。

 念のため、村上氏のWebページに掲載されたエッセイのなかからイラク戦争に関係した部分をリンクしておく。ここで氏はブッシュについて「人間としての『軽さ』を感じてしまう」と述べるも、「非難はブッシュだけでなくサダム=フセインにもなされなければならない」と主張し、結果的に反戦論批判を展開している。

 スタニスワフ=レムの小説「ソラリスの陽のもとに」に登場する科学者たちは、「ソラリスの海」という理解を超えた存在がもたらす不可思議な事象を恐れつつも、観測し、分析し、時には悩み、絶望の淵にまで追い込まれながらも、それらを理解し「名前」をつけようと試みる。サルトルの実存小説の登場人物なら「嘔吐」してしまうところだろう。
 しかしながら、理解できぬ不可思議なものを恐れ、忘れ去ろうとすることと、それらを対象化し理解しようと努めることは、人間の思考や行動の様式についての鏡の両面のようなものである。

 もちろん俺は科学者ではないが、できれば科学的な思考によってこの世界に対峙し、それを理解しようと試みたい。たとえそれが広大な「未知」の砂丘の砂粒を「既知」のこの手で作った小さな砂山に移すような、果てしない試みであったとしても。

※参考サイト
村上陽一郎のホームページ

「黒木玄のウェブサイト」より
「藤永茂による村上陽一郎批判」
村上陽一郎の「微分の言い抜け」説

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「動物に鏡を与えると、その反応は様々である。」 という書き出しではじまるマルティ [続きを読む]

受信: 2004.05.12 13:05

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