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2004.06.07

ギャングの連帯感

 あの少女は、人の死というものをどう考えていたのだろう。いまどきの子どもとはいえ、殴られれば痛くて、切られれば血が出て、悪ければ死に至るということは知っていたはずだ。明確に人を殺せる方法で人を殺したのだ。むしろ、冷静に確実に相手を殺害することを知っていたようだ。
 この事件がネットや教育制度、教師、あるいは親に責任があるというような理屈を述べることはたやすい。報道によれば、加害者は被害者にWebページの開設を手助けしていたほど両者は仲良しであったという。しかし、その関係の結末には慄然とさせられる。ひとつ言えることは、殺された子どもと殺した子のあいだには、メールやチャット、あるいは実際の会話の中にも、意思の疎通はまるでできていなかったということだ。
 しかしそれを他人事のように聞き流せるだろうか、あなたの周りに、意思疎通はおろか、話すことすらしたくない人物はひとりもいないといえるだろうか。残念ながら俺にはいるよ。また、街中でひどい運転をし、他人の生命を危険にさらすドライバーに殺意を抱いたこと。あるいは特定の政治家にテロリズムを敢行する白日夢を見たこともある。暗く冷たい衝動が脊髄を駆け巡ったことは幾度となくあった。
 でも、俺は息苦しくとも社会のなかでなんとか生き残ってる。この妄想はいつだって俺を誘惑するけれど、俺が知りえた知識や、理性や、想像力がそれを許さない。

 テレビのニュースは連日どこかの国の人々が無闇に殺されていることを報じている。だが画面のこちら側にはまるで実感がない。戦争を起こした指導者は正義のためと嘯き、テロリストは嘲笑う。やつらは当然のように開き直る。わずかな金を奪うためにたやすく人を殺す者たち、自ら死を選ぶ多くの人々。死という現象のデフレーション。俺はまたも吐き気がする。
 人類が高度なコミュニケーションを行う力をもつに至ったというのなら、恐怖や怒り、疑心暗鬼からの殺戮や戦争からは、そろそろ解放されなければならないだろう。
 真摯に相手に意思を伝えようと努め、また相手の言葉を理解しようと努めるなら、ネットだって現実社会だって、あるいは個人だって国家だって、必ず相互の理解は可能となるはずだ。そうでなければ人類に生存する価値はない。

 教育基本法を改正し、教育勅語の精神を復活させたいという勢力は、この事件を最大限に利用するだろう。しかし、むしろ彼らが教育基本法にうたわれた戦後民主主義教育のあるべき姿を歪めてきたんじゃないだろうか。人間の命は何より大切なものだというあたりまえの事実を彼女が十分知らされていたならば、そのとき殺意を振り払い、笑顔を取り戻せたはずなのだ。

 子どもたちに日の丸や君が代などという偶像を崇拝させることは、権力を批評あるいは批判することは悪であると教えること。思考の停止を教えること。この世界で常に気を遣わなければいけないのは常に自分が他人と違っていないかということ。自分たちと異質なものを決して理解しようとせず、それを攻撃する側にいることで安心感を得る。まるでギャングの連帯感だね。でもこんな醜い思想が子どもたちのみならず、いまや日本中を覆ってしまおうとしている。

                ※                  ※

教育基本法

【前文】
 われらは、さきに、日本国憲法を確定し、民主的で文化的な国家を建設して、世界の平和と人類の福祉に貢献しようとする決意を示した。この理想の実現は、根本において教育の力にまつべきものである。
 われらは、個人の尊厳を重んじ、真理と平和を希求する人間の育成を期するとともに、普遍的にしてしかも個性ゆたかな文化の創造をめざす教育を普及徹底しなければならない。
 ここに、日本国憲法の精神に則り、教育の目的を明示して、新しい日本の教育の基本を確立するため、この法律を制定する。


【第1条 教育の目的】
 教育は、人格の完成をめざし、平和的な国家及び社会の形成者として、真理と正義を愛し、個人の価値をたつとび、勤労と責任を重んじ、自主的精神に充ちた心身ともに健康な国民の育成を期して行われなければならない。

【第2条 教育の方針】
 教育の目的は、あらゆる機会に、あらゆる場所において実現されなければならない。この目的を達成するためには、学問の自由を尊重し、実際生活に即し、自発的精神を養い、自他の敬愛と協力によって、文化の創造と発展に貢献するように努めなければならない。

                ※                  ※

【教育勅語 抜粋】

「常ニ国憲ヲ重シ国法ニ遵ヒ一旦緩急アレハ義勇公ニ奉シ以テ天壤無窮ノ皇運ヲ扶翼スヘシ 是ノ如キハ独リ朕カ忠良ノ臣民タルノミナラス又以テ爾祖先ノ遺風ヲ顕彰スルニ足ラン」

※拙訳
「常の国憲を重んじ、国法に従い、いったん大事があれば義勇をもって朕とその皇統のために尽くすべきである。これはただ朕の忠良な臣民であるという理由からだけでなく、祖先から受け継いだ顕彰すべき遺風なのである」

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コメント

お久しぶりでございます。
感想(というより一方的な駄弁り)述べさせていただきます。

国家間の紛争、集団的対立の縮図として
個人間の対立を見るとき、
それは、たとえば殺人事件として顕現したとき、
誰が、どのような反応を示すかによって、
闘争観の一端が見えるかもしれません。
(ただ軽々に判断することは危険であることも承知しています)

人が死んでいるというときに、
すこぶる暢気な「自己責任論」をぶったり、
なおも暢気に「女が元気で結構」などとうそぶいたり、
「戦争なんだから、当たり前。しょうがないでしょう」と
てらっている者の正体や本音は、そこで顕かにされます。

「この国に、大人はいない」と、
むかし、誰かが言ってたのを思い出しますと、
そのような人々の見える戦争の光景というのは、
まるでプラモデルの飛行機の延長線上にあるような印象を憶えますね。

正義のテレビヒーローも、
顔を仮面とスーツで隠さないとやっていけない世の中に、
いったいどちらが怪人なのか、わからなくなっていますしね。
(まあ、それはそれで置いておくとして)

インターネットで、
年齢や場所の離れた人々と同じテーマで、語り合うとき、
たとえば同じことを言っていて、仮に共感しえたとしても、
誰が、それを言っているかで、本意はガラリと変わるものです。

誰もが国益だの戦争だのを語りあえる よい時代には、
「どの立場が、何を背景に”それ”を語るか」という点に
注目していく必要があるようです。

「世の中なんかおかしいぞ」というときに、
この国は、いつも感情的になってきた印象を持っています。
「おかしい」というのに、
「みんな頭を冷やそうよ。そんな馬鹿な道理はないよ」という人が
偉い人の側から現れたためしがありません。
(現れた矢先に殺されてしまったということもあるようです)

権勢はマスコミや口コミを通じておきながら、
マスコミや家庭、文学、サブカルチャーなどに問題を丸投げして、
児童は、純粋のイメージを保ったまま、ふたたび人を斬ってしまいます。

大人が絶望しているときに、
子供の絶望と言ったら、大人の比ではないのでしょう。
言い知れぬ不安も重なれば余計、絶望は闇です。

大人が大人を虐待するとき、
「テロとの戦い」に熱くなっているとき、
「戦争ですからね。」と、ニヤニヤ顔になっているとき、
子供が子供を虐待することを不条理とは感ぜられません。

「世の中、こんなですからね」
なんて、暢気な茶飲み話にするのは本意ではありませんが、
しかし、こうしたことが社会の病理だのと言われる世なら、
われわれ、いわゆる大人の衒いや皮肉や諦めこそが、
もっとも悪質な病理とも言えるのではないでしょうか。

投稿: coho | 2004.06.07 04:06

思うに、実像の怜美さんから、心の中に見えた虚像の
怜美さんを見るようになったのではないかと。
思いこみのずれを増幅させていたのがインターネットと
本・ビデオ。
虚像を「倒した」つもりだから、生きていると
どこかで思っているようなコメントが出てくるのでは?
現実感の希薄さを埋めるために、「死の教育」が必要で
しょう。子どもに普通の老人の死を見せる事が。
一番は祖父母か親戚の老人なのですがね。

投稿: りーと | 2004.06.07 23:30

>cohoさん

 長文のコメントありがとうございます。

>>年齢や場所の離れた人々と同じテーマで、語り合うとき、
たとえば同じことを言っていて、仮に共感しえたとしても、
誰が、それを言っているかで、本意はガラリと変わるものです。

 たしかにそのとおりですね。人間はその立場が行動や発言を規定していますよね。

 ただ、私は根源的にひとりひとりが人類であること、生命を共有していることによって世界中の人々とコンセンサスをもてるのならそうしたいと夢見ます。空想的との謗りは甘んじて受けなければならないでしょうけれども。


>りーとさん

 人の命をかけがえのないものと感じるのは、おっしゃるように、人間の死に直面し、その光が失われいったことを知るときですね。

 知り合いの子どもは、ハムスターが死んだとき号泣していました。死んだのは自分が悪かったのだと、小さい胸を痛めていました。
 生き物の死は人の死にも通じるように思います。子どもが身近な人の死に目に会うことができないとしても、大切なペットの死を看取るだけでも、生命のはかなさと大切さとに触れることができるような気がします。

投稿: Rough Tone | 2004.06.10 04:55

> 人間はその立場が行動や発言を規定していますよね。

そうなんです。
ただ、はっきり言い得るのではなくて、
「私は××である」という肩書きだけでは、
自分自身を説明できないときがあるので、
一方で、判断は慎重にすべきだと思っています。

「さあ、一言で言うなら、おまえは誰だ?」
と問われているとき、言葉に詰まる自分がいて、
いきなり「おまえは××だ!」と言われてしまう
怖さをも知っています。

単要素ではいられない自分を、ぼんやり発見できるのですが、
あわてると、ついふらふらと
××人格、××意識、××主義の一部膨張や
停滞などによって自己が決定され、
気がはやると
「逃げる」か「染まる」かになる自分がいたりします。

緊急事態に結論を迫られて、
感情的になってしまうと思うのは、
自覚症状ですね。だから気をつけねばならない。

公的立場の人間の失言めいた言葉を
「ああ、こいつの本心だな」と思うのは、
そういった思いが自分にもあるからです。

> 生命を共有していることによって世界中の人々とコンセンサスをもてるのならそうしたいと夢見ます。

素晴らしいことです。
空想的との謗りを受けるいわれはないと思いますよ。

たとえば、
空想が、現実を見るための一種の方法論と考えるとき、
現実は「生命を共有する世界中の人々」の
空想によって支えられた楼閣であると言えます。

空想を現実の下に階級づけるような観点からなら、
謗りのようなものが発せられるでしょうが、
空想が、やがて起きるべき現実の準備でしかない
と言うことのために、人間の想像力があるのなら、
なんという、飛躍のなさだろうと思ってしまいます。
(日本では、これを現実主義というようですが)

現実に空想の再現を、あわてて強いようとして、
現実と空想を一致させたときに、何が起きるか。
想像力があれば、わかることでした。
(その点から言えば、あの少女は、
 空想があって、空想を支える現実があって、
 想像力がなかったといえるでしょう)

途方もない話を描ける者は、それを容易に謗る者よりも、
想像力の羽を途方に向かって広げていると感じます。

  地球が二つに割れればいい
  そして片方は洋行すればいい
  すれば私はもう片方に腰掛けて
  青空をばかり―――
    (中原中也「この小児」より)

投稿: coho | 2004.06.10 15:56

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