せとともこさんが書かれていた「人はなぜ勉強するの?」という問いについて、すこし考えてみた。俺もやっぱり高校生のときは、文学や歴史なんかよりおのれの恋愛のほうがよっぽど大事だった。せとさんが書かれていらっしゃるとおり、中学高校の勉強が大学での専門学問の土壌をつくるということは、大学に入ってその学問の面白さを知ってからやっとわかることなんだよね。中高生にわかりやすく説明することはなかなか難しい。
30代なかばとなり、限られた時間というものの大切さを思い知らされた今も、職場で10代の中高生といつも接しているから、知識や学問、そして思索によって、俺自身、いつまでも成長するはずだという幻想を抱いている。まあ気楽な独身生活ゆえかもしれないけど。
思えば10代は、詩や歌にもうたわれる月並みな表現なのだが、人生の中で特に素敵な時期だろう。好きなことに耽溺しつつも、いろいろなことを学ぶことが許されるし、考えることもできる。本人が自覚的でなくとも、個人の考えというようなものは、この時期なんとなく創りあげてられていくものだ。
本を読んで多くの先人の思想に触れる。それで「わが意を得たり」と興奮することもあるだろうし、「これはおかしい」と、自分なりに情緒的、あるいは論理的に批評しようと試みることもあるだろう。人間として生きていく上で、他人の意見に共鳴できることはとても嬉しいことだし、道理に合わないことや非合理的なことに疑問をもつのもまた当然のことだろう。
もちろん読書を多くこなしたからといって、この時期の迷いや悩みがキレイさっぱり解消してくれるということなどあるわけがない。場合によってはむしろ悩みは思索によって深化あるいは増幅されるかもしれない。しかし、しばらく時間がたったらどうでもよくなるような相違点や対立というものがあることもまた確かなことだ。人生経験が豊富とはとてもいえない俺が言うのもなんだが、この時期に悩むことや迷うことは絶対に無駄ではないと思う。ものごとを学ぶにあたってのスタンスがあるとすれば、「弁証法的に学ぼう」と言っておこう。
俺が大学生のときは、ヒマだったが金もまたなかった。部屋で何もしていないときなど、天井の木目を見ながら、自分の人生や社会についてあれこれと物思いに耽ることができた。当時は無限の空虚に感じられた時間だったが、もしかしたら人生の中でも唯一無二の悦楽だったのかもしれない。そしてあの日の思索や、友人たちとの議論が今の俺の人格の一部をつくっているのもまた確かだ。俺の友人に「大学生がヒマで思索に耽ることは一種の義務だ」といった奴がいるが、そんな日々がじつは尊いものだったことは、日々の暮らしに追われる日々の中で、俺も本当に実感する。いくら仕事がきつくとも、仕事から帰って、酒飲んで風呂に入ったらあとは寝るだけという生活は拒否したい。10代のときのようにはいかなくとも、どんなことでももう少し考えたいし、悩んでみたい。この世界を理解し、できることならそれを好ましいと思われる方向に変えていきたいと思う。
世界中の様々な芸術や思想、科学を学び、豊かな知性と人間性を身に付けた人間。俺が人生の終わりまでにそこに到ることができなくったって、俺の教える生徒や学生たちには、時間があるうちに少しでも近づいてもらいたいと思っている。
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