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2004.09.11

「まつりあげるな、とチクタクマンは言った」

 今年オリンピックが行われたギリシアは、美しい神話で知られる国であるが、興味深いのは、その文化の中でイオニア地方にいわゆる「哲学」(自然哲学)が生まれ、タレースやヘラクレイトス、デモクリトスらは、自然の神秘を神秘にとどめず、純粋に論理的思考によってついには宗教とたもとを分かったことである。

 彼ら自然哲学者は、この世(あるいは宇宙)がなぜできたのか、なにからできたのかについて考えた。

彼ら以前にはこんな感じの問いが繰り返された・・・

「それは神が作った」
「じゃあ、神は誰が?」
「畏れ多いことをいうな!」

彼ら自然哲学者は考える

「この世界の根源は、水だ。なぜなら、あらゆるものに含まれているからだ」
----タレース----

「この世のあらゆるものは流転していく、その変化の象徴は火だ」
----ヘラクレイトス----

「万物の根源は、それ以上分割することのできない等質不変の原子(アトム)だ」
----デモクリトス----

 彼らの結論は現代科学から見れば稚拙なものだが、この世の「謎」を謎で終わらせないように思索を続けたことこそ哲学の始まりとされる所以なのではないか。
 個人的には、デモクリトスの「原子論」なんてものは、電子顕微鏡などないその時代に、よくぞ思索のみでここまでたどり着いたものだと思う。

 宗教になくて科学や哲学にあるものというのは、「なぜ?」という問いだろう。無論、科学者も、科学理論も、信仰の対象になってしまってはおしまいだ(自戒せねば・・・)。
 タレースなどと同様に自然哲学者のひとりとされるピタゴラスは、「万物の根源」と考えた「数」を絶対化し、神として崇めた。またフランス革命政権も、「理性」の優位性を強調するあまり、それは批判は許さない信仰の対象になっていった。
 世の宗教というものは、はじめから宗教らしい宗教だったわけじゃないような気がする。神の前の万民平等を説くイエスやムハンマドの教えは、差別されあるいは虐げられていた人びとにとって、どれほど光となったことだろう。親鸞の悪人正機説は、善人になりたくともなれないことがわかっているふつうの人々に、どれだけ救いを与えたことだろう。

 開祖といわれる人びとは、イエスにしても釈尊にしても、彼らなりに世界と向き合い、人の世の真理を発見したと考えた、あるいは人びとを救う唯一の道だと考え、それを広めたかっただけだったのではないだろうか。

                ※                  ※

 今日、とある講習(お恥ずかしい)で自動車免許試験場に行った。休憩時間に廊下に出たところ、白いベールのようなものをかぶったイラン系かトルコ系と思しききれいな女性が、となりの教室からでてきてベンチに座り、コーランを開いていた。つい見惚れてしまったよ。

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2004.09.08

ベスランの悲劇

 もう2週間経つというのに、捻挫した手首の痛みがなかなかとれない。ずっとこのままかと弱気になってしまうなあ。


☆天災よりも恐ろしいもの

 俺の住む街にも台風が直撃した。夜明け前からの風雨の音にこれほど緊張したのはいったい何年ぶりだろう。今日は職場に出て行くこともできず、自宅待機。結局、仕事はキャンセルとなった。
 火山の噴火、地震、台風と、自然の力を思い知らされるニュースが続いたわけだが、そのどれよりも恐ろしいのは、人間による暴力。岡山の小学生殺害事件、北オセチアの悲劇。パレスチナやイラクでの暴力。個人的な殺人であれ、テロあるいは正義の戦争であれ、暴力は先に行使したら、あるいは先に行使させたらおしまいだ。憎しみはどこかで断ち切らなければならないはずのだが、今の俺には愛する人を暴力によって失った人々にそれを諭す自信はない。無力感に苛まれる。何ができるだろう。せめて今は、やられたらどうすべきかより、どうすればその連鎖を断ち切れるのかということを考えてみたい。

 FAIRNESSさん「戦争へ導く主役」というエントリの、戦争へ導く主役は、おそらく俺たち人間ひとりひとりの中にいるという結論に刺激され、ちょっと思い出したことがあった。


☆戦争は大規模な殺人である

 あちこちでよく聞かれるような通俗的な意味ではない。まだ冷戦たけなわの1980年代初頭、カール・セーガン(1934~1996)は、著書「COSMOS」のなかで、イギリスの気象学者で、物理学者でもあるL.F.リチャードソン(1881~1953)の「死者ひとりの争い(個人的な殺人)と全人類を死滅させるような最大規模の戦争(たとえば全面核戦争)とは、連続した出来事の両端である」という説を紹介している。

 人間社会では、殺人は日常的に起こっているが、大規模な殺し合いはたまにしか起こらない。争いの規模と発生確率は反比例する。これは気象学者らしい統計学的な考察のはてにリチャードソンがたどりついた結論だ。そしてセーガンもまた、この立場を支持した。

「私たちの暮らしがおびやかされたり、自分自身に対する幻想が侵されたりすると、私たちは、いや、少なくとも私たちの一部は、相手を殺してやりたいほどの怒りを感じる。
 同じような挑発が国家に対して加えられたときにも、人びとは、ときどき、相手を殺したいほどの怒りを感じる。その怒りは、しばしば、個人的な権力や利益を求めようとする人たちによってあおり立てられる。
 しかし、殺人の技術が進歩し、戦争の被害が大きくなってきたので、大きな戦争を起こすためには、きわめて多くの人たちに同時に、相手を殺したいほどの怒りを感じさせなければならない。マスコミの機関は、しばしば国家の手に握られているので、このような怒りも、容易にかもし出すことができる。」
 --- カール・セーガン「COSMOS」木村繁 訳 ---

 人が誰かを殺したいほど憎むとき、すでに戦争はどこかで静かに始まろうとしているのだろうか。
ベスランで亡くなったすべての人々の冥福を祈る。


SETI@homeをめぐるちょっとしたさわぎ

スラッシュドットジャパンによると、SETI@homeが地球外生命からの信号の可能性がある信号をキャッチしたというニュースがあちこちで流れた。さすがにちょっと信じられなかったが、映画「コンタクト」を思わせるロマンを感じたのは俺だけじゃなかったみたいね。でもどうやら可能性は限りなく低いみたい。でもこれでSETI@HOMEの活動に参加する人が増えればそれはそれでいいのかもしれないね。
 最近、俺もかかわっているクルマのファンサイトのBBSで、なぜかチームを組んでSETI@HOMEへ突入しようということになった。俺もPC環境がととのえばやってみたいと思っているんだけど、電気代がちと心配。

 そもそも地球外知的生命(ETI)なんて、その存在を無闇に信じるとあの映画に出てくるUFO信者みたいに一種の宗教になっちゃうから、科学の子らしく気長に待ちましょうよ。生きているうちにその日が来るといいねってスタンスで。
 でもいったいどんな生命体が存在しうるかの想像を巡らすくらい許されるよね。

 「宇宙の組織と構造が自分たちの願いや好みと大きく食い違っていたとしても、その真実をきわめようという勇気を持った人たちは、宇宙のもっとも深いなぞを解き明かすだろう。」
----カール・セーガン「COSMOS」木村繁訳----

 カール・セーガンは、科学者が世界や宇宙に対峙するのと同様のスタンスで、人間社会をも見つめようとした科学者だった。

「どの国も、どの宗教も、どの経済体制も、どの知識も、私たちが生き残るのに必要な答えのすべてを持ってはいない。いまある社会体制よりも、はるかによく機能する体制が、数多くあるに違いない。科学的な伝統の中でそれを探すのは、私たちの義務である。」
----カール・セーガン「COSMOS」木村繁訳----

 科学的考察の果てにある俺たち人類の未来社会? 知識と想像力に乏しい今の俺には想像もつかないなあ。
 せとともこさん最近のエントリで引用されていた言葉を思い出す。
「真実は、それが常にそうであうように、はるかに異様なものにちがいない」
----A.C.クラーク----

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選手会のストライキ

 無闇に年俸をあげてくれといってるわけじゃなし、このストライキもプロ野球界の新たな時代のためにはあってもいいだろうと思うよ。古田選手をはじめとする選手会の立場は理解できる。というより、いち野球ファンとしても他に方法がないようにさえ思える。たとえ、その先になにがあるのか俺のような凡人には見通せなかったとしてもだ。
 長らく国民的スポーツの頂点に位置してきたプロ野球は、リーグや球団の運営陣がその人気にあぐらをかいてきたことは否めない。おそらくプロ野球界の構造的な問題なのだろう。サッカーのJリーグに比べても、このプロスポーツはさまざまな意味で硬直しているように思える。もっとも、プロスポーツとは所詮このような性格のものなのかもしれないが。

 そういえば、小泉首相が、選手会のストライキのことを訊かれて、「これじゃますますメジャーリーグのほうが面白くなる。イチローは5打席5安打だ」なんてコメントしていたのをテレビで見た。この国の宰相のコメントとしては非常に情けない思いがした。もっとも、アメリカのポチである小泉首相にはそのほうが好都合なのかもしれない。

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