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2004.11.23

転落の危機

それは無神論者を自称している俺が神秘主義者に転落するかどうかの瀬戸際の危機。

 鳥居のようなものが幾重にも俺の前後左右をとりかこんでいる。鳥居によってその空間は結界のように作用しているらしく、その下をくぐろうとすると胸が苦しくなり動けなくなる。

「はは、俺ももういよいよか。人の臨終とばかりに、無神論者を僭称する俺様に懺悔を迫りにきたか、八百万の神のくそったれ! 美しいもの、人にとって大切なものを神の名の下に容赦なく奪い、多くの人の涙と血にまみれたあらゆる神を、俺は一切信じないぞ。一神教だろうが多神教だろうが、鏡の両面のようなもの。お前たちはみんなグルなんだ。」

 と、ここまで一気呵成に言ってわれながらちょっとカッコイイと思った。人びとの祈りに豊穣、平和、安定で答える神々など、その存在を信じるに足る根拠を示したことすらない。奇跡、秘蹟のたぐいはおよそ計画的詐欺。崇拝を、儀式を、生贄を求める神など、はっきりいって嘘であり、まったくの欺瞞。

 ここで俺は叫ぶ。神を信じる人には悪魔の言葉。しかし妙に俗っぽいどこかで聞いたことのある言葉。

「神は死んだんだよ!」

 神が存在すれば、それはこの宇宙の物質存在の創造者としての恩義というものがあるかもしれぬ。しかし神は同じ数の禍禍しい破壊をもたらしたのだからプラマイゼロなのだ。
 そういう意味じゃ「神なんてもともといなかった」と言うべきだったかなと、ちょっと後悔もした。でもそこまで余裕はなかった、それなりに動揺していた。降圧剤にうなされるちょっとカワイイ自称無神論者だったのである。

 さて、俺を取り囲んでいた重苦しい結界だが、それはもうあとかたもなく消えてしまった。目覚めたときにはスッキリとした気分だった。無神論者に育ったことを神に感謝しかけたくらいだ。


※追記

 最近、持病のほうの数値が数年ぶりによくないので、水曜日には久々に通院する予定。入院を宣告されないことを祈るばかり。
 以前のエントリで、入院したときに夢の中で神秘主義者に転落しそうだったと書いた。これはそのとき目覚めたあと病室で書きなぐった文章をもとにしているのだが、ランボーの詩篇にえらくインスパイアされている。俺は当時、遺言代わりにこの文章を知り合いにやたらメールしていたらしい。今となってもなおとっても恥ずかしい。

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荒野の果て

海よ 空よ そして森の木々よ
俺はおまえたちとともにある
唯一人荒野にあれど
狂気に俺を倒すことなどできぬ
俺はいつも論理的なのだ

真実が言葉で表現できねば
できるように変えねばならぬ
語り部を信じ言霊を信じる愚か者どもや
マテリアルに目隠しし倫理を語る詐欺師ども
常に周りを見まわし
自分が他人と違っていないかと
冷汗をかいている

真実と幻想を取り違えた輩
やつらは卑怯で小心者
人の言葉を皮肉にしか受け取らず
凶悪な目で俺を見る
罰当たりは死ねとばかりに
憎悪の目で俺を見る

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What Mad Universe!

 フレドリック・ブラウンの「発狂した宇宙」"What Mad Universe!"をはじめて読んだのは、中学2年生のころだ。俺がこの作品を知ったのはすでに作家の没後10年以上たってのことだった。いまからおよそ半世紀も昔の1949年に刊行されたこの作品を、ハヤカワ文庫の稲葉明雄氏の訳で読んだんだけど、はたしてまだ版を重ねているんだろうか。
 40年代アメリカのSFパルプ・マガジン全盛期の雰囲気をも伝えるこの作品。特筆すべき点は、40年代末のこの時点において、作者のすでに完成された感のあるSFの批評精神が、単に科学だとか文明だとかではなく、およそあらゆる対象に向けられている点である。当時のSFそのものへのパロディさえも交えている。
 ジャンルとしてはいわゆる多元宇宙をテーマとした作品に分類される。この分野には優れたものが多く、ディックの「高い城の男」や「宇宙の眼」が広く知られているが、現実が徐々に異化していくさまを描くブラウンのこの作品も、決して劣らない傑作だと思うよ。
 ハリウッド映画のような息もつかせぬ展開も見事だけど、物語のプロットも、作者の推理作家としての才能がいかんなく発揮されて痛快。物語後半の、この異世界の構造の説明がなされる部分でのたたみかけてくる迫力はすごい。物語の端々に埋められた伏線の存在にも改めて気づかされ、驚かされる。そして結末もまた、「バック・トゥ・ザ・フューチャー」のごとく、極めてハリウッド的なご都合主義!
 かつて中学生のときに心に描いていた総天然色のイマジネーション。21世紀を迎えた現在、メッキーやドペル、ルナンやわれらが主人公キースらが、スクリーンを縦横無尽に駆け巡る姿も見てみたい気がする。現在のハリウッドの映画技術で、実際にはやってこなかった「まぼろしの1970年代」を映画化してほしいものなんだが。

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2004.11.08

進化論とキリスト教原理主義

 「超歴史スペクタクル 地球の夢!生命の夢!!ダーウィンの大冒険~僕たちはみな進化という名の旅をしている~」

 それにしても長いタイトルだ。進化論を唱えたチャールズ・ダーウィンの半生を描くTBS製作のドキュメント。11月3日に放送されたものを録画していたのだが、仕事が忙しくてやっと週末になって見ることができたよ。 監修・出演は荒俣宏、リポーターは雨宮塔子。
 俺の尊敬する雑学の怪物(笑)荒俣宏さんが監修したというので興味深く見た。今この時期になぜこういう番組ができたのかよくわからないが、さすがに「世界ふしぎ発見」をつくっている同局だけのことはある。スポンサーのトヨタ自動車にはちょっと抵抗あるけどね。

 ダーウィンが愛する娘を失ったとき、神による救済というものに疑問を抱き、以後教会と距離をおいたというエピソードは、自分自身の幼い頃父を亡くした経験が思い出された。
 若きダーウィンがビーグル号で旅をともにしたフィッツロイ艦長とのエピソードにも心打たれた。熱心なキリスト教徒で、聖書を唯一のよりどころとしていた彼は、のち完全にダーウィンと立場を異にした。番組では描かれていなかったが、のち、イギリス政府の天気予報官となったフィッツロイは、誤った予報を出してしまい嘲笑を浴び、喉をかき切った。それでもダーウィンは若き日をともに旅したフィッツロイの死に心痛めたという。

 その昔、1930年代にハリウッドで作られたダーウィンの伝記映画では、フィッツロイを若き日のロナルド・レーガンが演じていたという話を思い出した。

 再現ドラマを見れば、無神論者でなくとも、宗教観の希薄な現在の日本人の常識からはダーウィンを批判した人々の主張は滑稽にさえ見えるだろう。しかし、アメリカでブッシュの強力な支持基盤でもあるキリスト教原理主義者(根本主義者)たちは進化論をいまも頑なに否定している。先日の「ニュース23」によれば、ブッシュは演説の中にキリスト教原理主義者しかわからない宗教用語を暗号のように散りばめているという。
 先週日曜のサンデープロジェクトでは、アメリカ大統領選挙にあわせ、キリスト教原理主義についての興味深い特集が放送されたようだが、残念ながら体調不良のため見逃してしまった。

 中学生のときだったか、学校のそばでとあるキリスト教系宗教団体の人と思しき人からから冊子をもらった。それによれば、「ダーウィンは神をもおそれず進化論を唱えたため、地獄へ落ちました」というようなことが書いてあったのを思い出す。幸い、すでに「自称・科学の子(?)」であったので特に感化されるようなことはなかったんだけど、あのとき感じた薄気味悪さを思い出したね。

                ※                  ※

「憲法なんてのは他人のつくったひとつの文言でしかない」
「憲法は全然ありがたくない」
「憲法には歴史的に正統性がない」

 今日の報道ステーションでの石原慎太郎・東京都知事の発言だ。久米宏さんに比べてなんだか物足りないと思っていたけど、石原氏と激論を交わした今日の古館さんはちょっと誉めてあげようかな。
 一昨年の彼のひとり舞台「トーキングブルース『言葉』」のなかで「俺の嫌いなあのブッシュが!」と言い放った古館さんだからこそ、ちょっと期待してしまう。

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2004.11.01

吐き気がする週末

 職場の連中と週末にやっているバドミントンへの行き帰りは、気分を変えるためにいつもの通勤ルートではなくて、少しだけ遠回りをする。帰りに遠賀川沿いにある直方市植木の公園。そこは、トイレ休憩したり、たまに昼寝をしたり、ひとと一緒だと一緒に弁当を食べたりもするお気に入りの場所である。そこがじつは今回の人質事件で犠牲になった香田さんの実家のすぐそばなのだ。
 事件発生以来、香田さんの実家には報道陣が大挙して訪れたという。この週末はさすがに公園にすら足が向かなくて、香田さんの無事を祈りつつ、まっすぐいつもの道を走って帰宅した。

 事件発生以来、香田さんの家族に対する誹謗中傷の電話が相次いだという。息子を襲った悲劇に加え、いわれなき非難にまでさらされて、どれほど心労があったことだろう。家族は事件発生まで、息子がイラクに言っていることなど知る由もなかったというのに。
 そのような連中の性根は腐り切っていると思う。しかし計り知れぬ心労や、いわれなき中傷から家族を守ろうと奮闘される直方市職員の方々の姿勢は、それらとは好対照だった。

 24歳の若者は、その命をなぜあのような形で終えなくてはならなかったのだろうか。今回のイラク入りについて、軽率だという批判はあるとしても、ひとりの日本国民の命が失われたことは厳粛に受け止めるべきではないか。
 それが自分探しの旅だったとしても、ひとから笑われるようなことでは断じてない。そのことを揶揄する連中もいるようだが、それと事件の結末は関係づけるべきではない。

香田さんのご冥福を心よりお祈りする。

 小泉首相は、事件の一報を聞くやいなや「人質救出に全力を挙げる」「テロには屈しない、自衛隊は撤退しない」とうそぶいた。しかし結果たったひとりの日本国民を救うことさえできなかった。自衛隊の派遣によって危険にさらされているのは、はたしてイラクにいる邦人だけなのか。国内でスペインのような大規模テロが起こってもそう言っているつもりなのか。自衛隊を含む多くの国民の命をかけて、誰に忠誠を尽くしているのやら。
 個人的には、「テロには屈しない」とうそぶく首相よりも、スペインのテロののち、政権を握り部隊を撤退させたスペインのサパテロ首相や、人質の命を救うためにフィリピン軍を完全撤退させたフィリピンのアロヨ大統領のほうに、よっぽど国民の生命と財産を守る姿勢が見える。彼らはテロに屈したのではなく、自国民を無駄に死なせなかっただけだと思うのだが。

 また、イラクに自衛隊が派遣されたのは、現地イラクのサマーワが「非戦闘地域」ということが前提だったはずだ。入国すると外国人が民間人ですらただちに命の危険にさらされるというイラクという国そのものに、はたして戦地じゃないところなんてあるのだろうか。政府の言う非戦闘地域っていったいなんなんだろう。サマーワだけ特別なのか。自衛隊の頭の上をロケット弾が飛んでいって、宿営地内に着弾しても、「サマーワは非戦闘地域」なんだろうか。そもそも小泉首相が敬愛し、再選を期待するブッシュですらアフガンやイラクでの戦争は「テロとの戦争」だと言っている。だとしたらイラクはまさに交戦国だ。

 テロは圧倒的な力に対する弱者の側の破滅的な暴力。正面からまともに戦ぬゆえ無差別の凶行に走る。しかし結果テロはより多くの弾圧を生み、悲劇はさらに増える。テロリストの論理ははじめから破綻している。圧倒的な力による反撃を招き、おなじムスリム同胞を無差別に傷つける結果になるからだ。テロリストにまったく正義はない。
 しかしそれを攻撃する側の「正義」というものも思いっきり疑わしい。イラク戦争以前には、イラクには独裁者はいても、ザルカウィのような国際テロリストはいなかった。アメリカとその同盟国が連中を招き寄せたのだ。正邪はともかく、テロを行う論理は彼らの中にあり、人道支援だかなんだか知らないが、テロリストが自衛隊の存在を今回の凶行の根拠にしたことは紛れもない事実だ。テロは実行させることを阻止できるなら、それが一番いい。テロが起こってしまってから反撃してもじつは何の問題の解決にもならない。

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