あまりに唐突で、不本意な死
若い頃クルマやバイクの趣味に呆けた。今だってキライではない。サーキット走行など、少々危険なこともやってきたけれども、自分のミスで事故を起こして死ぬ、あるいはリスクを承知でなにかをやって結果死ぬというならば、周囲の人間はともかく、本人はある程度納得して死んでいけるかもしれないなどと考えたこともあった。バイクや自家用車で通学や通勤をせざるを得なかった身としては、そう考えなくてはやっていけなかったのだが、今思えば、周囲のことを何も考えてないきわめて無責任で勝手な考え。若い頃は、自分という人間の死によって失われていくものや壊れていくものについて、認識が甘かった。あるいは、他者への愛情も、愛されているという認識も不足していたのかも。
昨日のJR福知山線の脱線事故のニュースには戦慄を覚えた。犠牲になった方々の数が次第にふえるのをテレビのニュースが伝えるたびに、たまらない吐き気がおそってくる。阪神大震災や、地下鉄サリン事件、あるいは同時多発テロの犠牲者のニュースを聞いたときもそうだった。
公共交通機関の事故のニュースは、普段リスクを特に意識しないだけに、やりきれない。愛する人の不慮の死は、周囲の人間にとってどれほどの衝撃か、想像するに余りある。航空機ならともかく、ふだん電車ででかける人の、万一の事故を心配する人がどれだけいるだろうか。
本人にとってはあまりに不本意な、予想だにしない人生の断絶。あまりの利便性に忘れがちだが、どんな交通機関を使おうとも、高速移動に伴うリスクは確実に存在する。死は意外と日常のすぐ近くに転がっている。
圧倒的に不本意な死といえば、やはり戦争に巻き込まれて死ぬことかもしれぬ。ベトナムで、パレスチナで、ファルージャで、戦争はどれだけの人びとの人生を、唐突に、不本意な形で断ち切ってきたことだろう。
戦争のできる国にしたい人びと、俺には「戦争をしたい人々」のようにも見えるのだが、彼らは、自分は戦争で死ぬことはないというふうに考えているのだろうか。あるいは、彼ら自身や、彼らの愛する人びとが命を落としても、戦争なら仕方がないという覚悟でもできているのか。
俺たちは、ひとりひとりが「運命」という舞台の主演を演じていると思っている。映画やアニメじゃ、ふつう主人公は死なないよな。しかし本当の戦争は映画やアニメじゃない。いざ死ぬときになって、俺たちはこの「日本」という巨大な舞台の脇役だってことをを悟るんだろうか。
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コメント
戦争したい人は自分が犠牲になるということは考えていません。想像力が欠如しているのでしょう。または、自分の生命すら重要視していない、現実感覚がないのかも。
天災でも不慮の事故でも(いづれも人災の要素が必ずある)人は死ぬ。戦争なんかしてる場合か、と毎日思います。
投稿: Psycho.Y | 2005.04.26 22:28