« 2005年5月 | トップページ | 2005年7月 »

2005.06.29

「きけわだつみのこえ」 その1

その1
 → 本題とまったく関係なさそうな予告編
      俺の「モーターサイクルダイアリー」

 ここに書くのは、当時の日記をもとにした小説のようなもの。1980年代も末の頃だと思ってほしい。

 大学3年生の夏、なぜか突然信州に出かけてみようと思い立ち、バイト代をひっつかむと、ひとり愛車VT250Fで都市高速をつっぱしり、小倉の日明港にあったフェリー乗場から、神戸へと向かった。野沢菜を食いたいと思ったのだ 。たぶんツーリング系のバイク雑誌で信州のことがよく取り上げられていたことにも影響されていたのだろう。

 二等客室で一晩を過ごし、翌朝はやく、当時フェリーターミナル以外なんにもなかった六甲アイランドに着いた。思えば旅先の宿のことなどまったく考えていなかった。最悪、宿がとれなければ、夏だからどこかで野宿でも出来るだろうと適当に考えていた。

 途中、俺にとって聖地であった甲子園球場に寄ったり、京都でいくつか寺めぐりをしたり、これまた当時のバイク乗りの聖地であり、その年の8時間耐久レースが行われたばかりであった鈴鹿サーキットへ立ち寄ったりして、自由気ままな旅を続けた。関西での数日間の宿はビジネスホテルやユースホステルに飛び込んですごした。立ち寄った甲子園球場ではその日、当時浩宮と呼ばれていた現在の皇太子が高校野球の開会式に出席するとかで、警官が球場付近のいたるところにいたのを覚えている。怪しいバイク乗りのいでたちでは、球場に近づくこともできず、球場近くのコンビニでなにか飲みながら甲子園球場のほうを見やり、ひとり腹をたてたのを覚えている。

 父親の遺骨の納められている真宗大谷本廟のわきをかすめ、1号線を京都から名古屋方面へひた走った。当時は父親に線香をあげようなどとは、露とも考えていなかった。
 3日目の夕方には名古屋についた。暇つぶしに道中みつけたバッティングセンターに行って何セットかバットを振った。ところが、ながくバイクで走ってきたため、革のライディンググラブの下で手はふやけきっており、手のひらの皮がべろっと剥けてしまった。考えてみれば無謀である。

 おまけに、名古屋で当日の宿を探したが見つからず、とりあえず薬局に寄り、手に応急処置。ついでにユンケルかなにかを買って飲み、徹夜を覚悟した。夜に走り回っても危険なだけなので、一宮市あたりの街道筋にあった、24時間営業のゲームセンターで朝までなんとか過ごそうとした。

 ところが、深夜、ゲームセンター前でバイクにまたがったまま休憩していると、いわゆる「ヤンキー」とよばれる少年たちにからまれることとなり、ひと悶着あった。15、16歳くらいの少年ふたり組みが、しきりにバイクを貸してくれとからんでくる。たまりかねてひとりの少年の胸倉をつかむと、もうひとりが捨て台詞をのこして駐車場に走り、やくざだと自称する中年男がなにか叫びながら走ってきた。どうやら少年たちの父親のようだった。酒かくすりにでもに酔っているのか、顔がまっかである。「ヤクザをなめるな」などと叫んでいる。

 こちらはなんとしてもバイクを奪われるわけにはいかないので、蹴飛ばすように振り切ってアクセルを開け、走り出した。俺が胸倉をつかんだほうの少年は、俺のバイクに蹴りを入れてきた。バイクはぐらついたが、転びはしなかった。やつらをぶちのめしたい気分だったが、とりあえずその場をあとにした。痛む手で胸倉を掴んだためか、グラブの中の手がじんじん痛む。

 すると彼らは、白いクルマに乗り込み、タイヤをきしませてゲームセンターの駐車場を出て、こちらを追いかけてくるではないか。いくつかの辻を曲がり、なんとか振り切ったが、自分がどこにいるのか皆目見当がつかなくなっていた。
 真っ暗な道路に一軒のコンビニをみつけて飲み物を買い休んだ。とりあえずコンビニ前でバイクにまたがったままもう一度一眠りすることにした。しかしどうにも眠れない。そうこうするうちに夜が明け初めたので、もう一度バイクを走らせることにした。

 明るくなったので、バイクを降りて、昨夜蹴られた個所を見る。VTにつけていたモリワキフォーサイトマフラーの、アルミの銘板のところに傷がつき、曲がっている。怒りが込み上げてきた。あんなところで夜明かしをしようとしたのは俺であるから、自業自得かもしれないが、当時はこれまたそんなこと露とも思わず、やはり昨日のやつを見つけたらぶちのめしたいという気分だけに支配されていた。

 川沿いを走っていると、ちょうど朝日を逆光にして黒い大きな影がみえた。城?。意表をつく建造物が視界に飛び込んできて驚き、この城はいったいなんなんだとあたりを見回す。やがて案内板のようなものが見つかった。なんとそれは、唯一の個人所有の城として、俺も当時名前だけは知っていた犬山城だった。

 日も高くなり、信州方面に行こうと、犬山城をあとにしてわけもわからずバイクを走らせる。

 そもそも地図も持たずにきた旅である。国道をずっと走っていけばなんとかなるだろうと、岐阜方面をめざす。しばらく走ると、道路の案内板からすでに岐阜市内にいるらしいことだけはわかった。当時の岐阜市内は、名古屋と比べるとおそろしく田舎に見えた。田んぼのまん中に岐阜警察署が見えた。はらわたが煮えくりかえっていたので、ゲームセンターの名前や昨日の奴らのクルマの車種やナンバーを記憶してはいた。昨夜の連中に報復するために被害届でも出してやろうかとも思ったが、警察がとりあってくれるとも思えず、やめておくことにした。

 岐阜市内で食事をとり、駅の裏手周辺の歓楽街を、好奇心からうろうろ。まったく、こんなところをうろつくから変な奴らにからまれるわけだが、当時は怖いもの知らずだったんだから致し方ない。

 そうこうしているうちに、恐ろしく眠くなってきた。昨夜のこともあり、徹夜で体調がよくないのでその日の信州入りはやめておこうと決めた。夕方まで郊外の本屋などに立ち寄ってぶらぶらして過ごし、公園で手のひらのバンソウコウを取り替えた。持参したカメラで、皮のむけた手のひらの写真を撮った。

 この日の宿は一宮市のビジネスホテルに確保した。夕方、岐阜から一宮に戻る最中、昨夜の一件があったゲームセンターが見えた。また怒りがわいてきたが、振りはらって宿へと向かった。
 泊まったのは、家族経営のこじんまりとした宿だった。チェックインすると、中学生くらいの女の子が入ってきた。宿の経営者の娘らしい。
 夕食と朝食が出るはずだったが、フェリーの中や旅先の宿で読んでいた岩波文庫版の「きけわだつみのこえ」を読もうとして横になった。ところがどっと疲れが出てしまい、布団も敷かずにそのまま寝入ってしまった。おかげて夕食を食べそこなったうえ、あっという間に翌日の朝がきてしまった。

 宿をチェックアウト。この時点で俺にとって信州はもうどうでもよくなっていた。いろいろあったし、長旅に嫌気がさしてもう帰る気でいた。行きとは反対のコースで神戸に向かう。帰り道は一気である。もう一度鈴鹿サーキットに立ち寄り、バイク仲間へみやげものを買ったこと以外、一切寄り道なしでぶっ飛ばす。

 フェリーターミナルからトラック甲板の隅にバイクを載せ、売店でビールを買って二等客室へ向かう。なにか退屈な気がして、荷物を調べると、あの戦没学生の手記を一宮の宿に置いてきてしまったことに気づいた。

 旅から帰ってきてからもう一度買った一冊が、今も手元にある。じつは、この本のなかのいくつかの心に残る個所は、この旅の中でみつけたものだ。旅愁から、宿で泣きながら読んだ個所もある。だから俺は、この本を語るために、このような長大なまえがきを書かねばならなかったのだ。ごめんね。

本題は次回のエントリにて・・・

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2005.06.26

Musical Baton

 「dragon-tail」の龍3さんから、「Musical Baton」のご指名をいただいた。これ、はじめてその存在の噂を聞いたときには、一種のチェーンメールのように感じられ、どうなんだろうかと思っていたのも事実だ。だが、このブログのサイドバーに「My Favorite Music」なんてものを掲げている俺が、自分の好きな音楽について語ることが本質的に嫌いなわけない。そこで、「Musical Baton」の形式で、これを機会にいくつか好きな曲について書いてみることにした。しかし「Musical Baton」そのものを次に送るべき人はどうにも思いつかないので、ちと保留ということにしとく。龍3さんすみません。

★Total volume of music files on my computer
(コンピュータに入ってる音楽ファイルの容量)
 メインのWindows PCに約4GBはいっていた。

 大半はMP3だが、最近作成が手軽でサイズが小さいのでWMAがふえてきた。あと職場の仕事用ノートやモバイルノート、趣味の学習用Linux PCにも少々音楽ファイルを置いている。音楽がないと日々生きていけないと思いつつも、俺は音楽聴くと仕事の能率が落ちるのもまた事実。
 もっとも、仕事の時間の大部分は教室での講義なので、机についてヘッドフォンで音楽聴くなんてことは、テキスト原稿をあげなけりゃいけないときや、なにかの採点業務があるときに職場に残って深夜まで仕事をするときだけだ。

★Song playing right now (今聞いている曲)
「何だ、このユーウツは」ムーンライダーズ

 アルバム「DON'T TRUST OVER THIRTY」の最後の曲。古いカセットテープを発見したので、MDに落として聴いている。ムーンライダーズのアルバムはメンバーの個性もほんとにいろいろで飽きない。個人的には、このころの彼らのアルバムの最後の曲にけっこう好きな曲が多くて、「ANIMAL INDEX」の最後の「歩いて、車で、スプートニクで」も、大学時代バイクのフルフェイスメットのなかで聴きまくった
(危ないっつの)。

★The last CD I bought
(最後に買ったCD)
「A LONG VACATION」 大滝詠一

 どこが最近のCDなのかとお叱りを受けそうだが、少し前にリマスタリングCDを買って、懐かしさのあまりエントリを一本書いちまった

★Five songs(tunes)
I listen to a lot, or that mean a lot to me
(よく聞く、または特別な思い入れのある5曲)

何でも聴くし、そのときどきでコロコロと変わるのだけれども・・・

1.「Epitaph」King Crimson

 日々の生活でふと絶望的になったとき、カタルシスを感じるために聴く。思いっきり感情移入して聴いたあとはけっこうスッキリ。「Starless And Bible Black」なんかも同傾向の曲だが、ジョン・ウェットンの重く太い声よりもグレッグ・レイクの朗々とした声のほうが好み。


2.「I Fought the Law」The Clash

 怒れる中学生(!)だったころ、見た目頭の悪そうなピストルズよりも、すこしは知性がありそうに見えたクラッシュが、特に攻撃的なファーストアルバムが好きだった(音は悪いが)。本当は俺はジョー・ストラマーのようなおやじになりたかったのだけれども、彼は先年亡くなってしまった。とても残念だ。


3.「剣と女王」マーク・ゴールデンバーグ

 中学から高校にかけて、ランボーの詩にはまるきっかけとなった、サントリー・ローヤルウイスキーのCMで流れていた曲だ。この曲が入ったアルバム「鞄を持った男」はLPで持っている。
堀口大學の訳で読んだ、17歳の詩人による「音楽につれて~シャルルヴィル駅前広場にて~」"A la musique , Place de la Gare, à Charleville"という詩は、まさに17歳だった俺のココロに響き渡った。ああ懐かしい。


4.「我、汝に呼びかく、主、イエス・キリストよ」J.S.Bach

 無神論者を標榜しながらなんで宗教曲を聴くのかといわれそうだが、バッハの宗教曲は聖書の物語の劇伴音楽のようなものだと理解している。この曲は冨田勲のシンセサイザーで聴くのも悪くない。この曲はタルコフスキーの映画「惑星ソラリス」のテーマ曲になっていた。冨田の曲も映画を意識して「ソラリスの海」とタイトルがついていた。本当はバッハのオルガン曲では、ブクステフーデっぽい初期のもの(有名な「トッカータとフーガ ニ短調」など)が燃えるんだけれどもね。

5.「Alpha」Vangelis

 カール・セーガンのTVシリーズ「COSMOS」のサブテーマとして使われていた。宇宙関係の本を読んだり、天体写真を見ていたりすると、頭の中でいつのまにか鳴ってる。
 じつは俺はこの番組のサウンドトラックLPを持っている。冨田勲や武満徹、バッハやヴィヴァルディ、ストラヴィンスキー、ホヴァネス、ブルガリアンコーラスなんかも入っていてなかなか盛りだくさん。


★Five people to whom I'm passing the baton
(バトンを渡す5人)

これが思いつかないので困ってるんだよな。
迷惑じゃないから、送ってもいいよという方、いませんか?


※追記
 最初のトラックバックは、このところ読ませていただいているgegengaさんのブログ「かめ?」へ送らせてもらいました。ゲンタくんというかめと、うさぎなのになぜかかめえもんというブログペットがかわいいブログ。ゲンタくんのゆるりとした動きがこちらまで伝わってくる写真の数々と、ご主人よりもずっと長いエントリを書くかめえもん。「Musical Baton」をすでに受け取っている方なのですが、勝手なトラックバックを受け入れていただけるということなので、ご迷惑ではありますがトラックバック。
 あとの4名は・・・・どうしよ

| | コメント (3) | トラックバック (2)

2005.06.24

ウルグ・ベク

 天体の法則をあきらかにしてきたコペルニクスやジョルダーノ=ブルーノやガリレオ、ケプラーについては、強く心引かれるものがある。主に欧州の科学史のなかで登場してきた人々だが、アリスタルコスやプトレマイオスの時代と、コペルニクスの時代の間には、もはや暗黒時代とはいわないまでも、キリスト教的中世という大きな谷間が横たわっている。しかし、古代ギリシアやヘレニズム、ローマ時代の自然科学の成果は、高度な文明を誇ったイスラム教徒が保存し、西欧に再摂取させたということは、あまり一般に知られていない。

 今回のエントリでは、昨日のエントリで触れたティムールの孫にあたる、ウルグ・ベク(Ulugh Beg ,1393~1449 位1447~1449)を中心に書いてみたい。
 彼は、ティムール帝国第4代のスルタンであるとともに、天文学、歴史学、文学、神学など、およそありとあらゆる方面で才能を発揮した中世イスラムを代表する天才でもある。

 ウルグ・ベクは、青く美しきティムールの都サマルカンドに、彼の名を冠した神学校(ウルグ・ベク・マドラサ)を創設し、帝国内外から優れた学者を招いた。ティムール帝国をわずか4代にして世界に冠たる文化国家に押し上げたのは、主として彼の業績であったといっていい。

 さらにサマルカンドには、ウルグ・ベクが建設した天文台があった。古代グプタ朝インドの数学者にして天文学者のアリヤバータ(Aryabhatta, 476~550)がすでに唱えていた地動説は、インドで生まれたゼロの観念などとともに、すでに中世イスラム社会には知られるところとなっていた。15世紀初頭、ここでウルグ・ベクはみずから「六分儀」という観測器を用いて天体を観測し、現代の天文学者が計算するそれとほとんど違わぬ精度で、地球が太陽の周囲を回る時間、つまり1年の長さを算出してみせたという。それはコペルニクスの「天球の回転について」が出版される一世紀も前のことだ。

 聞けば、ウルグ・ベク・マドラサの中庭には、科学史上名高い5人の天文学者の像が建てられているという。アレクサンドリアのプトレマイオス(生没年不詳、2世紀)、イタリアのガリレオ・ガリレイ、ポーランドのコペルニクス、ホラズムのビルーニー(973~1048頃)と、ウルグ・ベク自身。いつかそれらを目にしてみたいと思う。スルタン・ウルグ・ベクが現代に生きていたら、ニュートンやケプラー、アインシュタインなどの像をここに付け加えようとするかもしれない。

 彼の真理へのあくなき探究心は、保守的なイスラム聖職者を困惑させ、その憎悪を招いた。好きな学問に勤しむには、スルタンの地位はあまりにも重かった。このエピソードを知った高校時代、武門に生まれながら万葉の雅に思いをはせ、心打つ歌を詠んだ鎌倉幕府の第3代将軍、源実朝のことを思い出さずにはいられなかった。彼らに欠けている資質というものがあったとするなら、帝王としてのそれだろうか。

 彼らはやがて、ともに実の息子や甥による暗殺という悲劇的な最期を遂げることになる。

 英主を失ったティムール帝国は、やがてウズベク人によって征服され、ボハラ、ヒヴァ、コーカンドの3ハン国が成立する。そして19世紀になってそれらはロシア帝国に編入されることになる。旧ソ連時代はウズベク共和国と呼ばれていたウズベキスタンが独立するのは、1991年のソ連の解体後のことである。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2005.06.23

きのうは(!)独ソ開戦の日

 今年は終戦60年の節目ということもあって、ロシアではさまざまな行事がおこなわれているようだ。もう昨日になってしまい、タイミングを逃したエントリだが、6月22日というのは、第2次世界大戦中の1941年、独ソ戦がはじまった日であった。

 すこしまえに、ウズベキスタンの反政府でもがニュースになっていた。長期にわたって独裁をおこなったカリモフ政権打倒を要求し、市民が「暴徒化した一連の動きである。独裁政権が倒れるならまことに喜ばしいが、旧ソ連諸国の一連の政変には、「民主化」の押し売りをすすめるブッシュ政権とCIAの関与も噂されており、真相については、よくわからない部分もある。
 またウズベキスタンは、世界有数の綿花の産出国でもある。開発は主に旧ソ連時代に行われたが、ゆきすぎた灌漑によってシルダリアの流量が減少し、アラル海が干上がり死滅しつつあることは広く知られている。

 世界史でおなじみのティムール帝国(1370~1507)の建国者ティムール(Timur , 1336~1405 位1369~1405)は、ウズベキスタンはサマルカンドの、グリ・アミール廟に眠っている。廟の中には、中が空っぽの偽物の石棺が置かれており、ティムールの遺体を納めたほんものの棺の所在は長らくわからなかったが、のちに廟の地下に安置されているのが発見された。その墓石には「何人も、この墓を暴く者は、恐ろしき者に打ち負かされるであろう」と記されていた。
 1941年6月22日のこと、ソ連の学術調査団は、なんと乱暴にもハンマーを振り下ろして石のふたを打ちわり、棺を開けた。まったく、無神論者は恐れをしらない。ティムールの遺骨には、足を引きずって歩いていたという伝説のとおり、足の骨には大きな傷のあとが残されていたという。

 そのまさに同日、ドイツ軍がソ連領内へ攻め込みバルバロッサ(赤ひげ)作戦が始まったというのである。それ以来、ティムールの墓は封印され、誰もそれを開く者はいないという。独ソ戦による死者はソ連だけでも2000万人を超える。ティムールの呪いとかたづけるには、両国の人民と将兵にとってあまりに悲惨な戦いだった。

 悲惨な戦いといえば、奇しくも今日23日は沖縄戦の慰霊の日。


※追記
 「無神論者は恐れをしらない」などと書いているが、俺ももちろん自称無神論者である。誤解なきよう・・・

※追記2
 事実誤認があったため訂正した。カリモフ政権は「倒れた」などと書いていた。なにを勘違いしたのか。まことに恥じ入る次第である。申し訳ない。

| | コメント (0) | トラックバック (1)

2005.06.13

2001:A Space Odyssey

 スタンリー・クーブリックの映画「2001年宇宙の旅」"2001:A Space Odyssey"が好きだということは以前に書いた

 俺にとっての「2001年」というものは、現在の若い人たちにとっては、カルトなファンのいるアニメ作品のようなものといったところだろうか。この映画に関しては、われながら一種のオタクあって、誉められたものではない。

 海外のSF小説を読むのが好きだった中学時代、なぜかクラークには特に惹かれるものがあった。クラークの描く未来のヴィジョンの鮮明さというか、ディティールへのこだわりが好きだったのだ。
 巷ではすでに俺がまだ小学校高学年の頃、「スターウォーズ」の登場で特撮技術に一種のブレイクスルーが起こって、SF映画ブームとよばれるものがはじまっていた。「スターウォーズ」も物語そのものは楽しめたが、一種の冒険活劇といった感じで、自分のなかで「SF」には分類していなかったように思う。一方で、あのクラークが原案を書いたという映画「2001年宇宙の旅」は、名作だと噂には聞いていたが、実際にはいまだ見たことのなかったため、興味は募る一方だった。

 1981年、テレビ朝日系の「日曜洋画劇場」で念願の「2001年」がはじめて放送されたのだが、当時、家にはまだビデオデッキもなかった。結局、まだ高かったVHSテープを買いこんで、近所の親戚に録画を頼んだのだった。繰り返し見たおかげで、故・淀川長治さんが解説で「若い人は大喜びでしょう」と言っていたのも鮮明に覚えている。実際俺は大喜びだった。HAL9000はもちろん、ボウマン船長やフロイド博士などの当時の吹き替えにもおおむね満足だった。
 余談だが、このときフロイド博士役のウィリアム・シルヴェスターの吹き替えを担当されたのは、ウルトラマンや仮面ライダーなどに出演されていた故・小林昭二さんであった。

 さて、時は過ぎ、ネット時代。この映画についてのサイトは早くから海外には多かったのだが、やはり日本人のファンの意見を聞いてみたいと思っていた。そんななかで知ったのが、BANYUUさんの運営されている「21世紀の歩き方大研究」(当時は「2001年の迎え方大研究」)という有名なページ。俺も実際の来るべき新世紀を前に、このサイトに魅了されじっくりと拝読した。

 ここには、「『2001年宇宙の旅』フォーラム全記録」という記事もあり、1992年1月12日、東京・六本木で行われたシンポジウムのおよその内容を知ることができる。1992年1月12日というのは、じつは劇中でのHAL9000型コンピュータの起動された日。いわば誕生日を記念しているらしい。

 HAL9000といえば、このサイトには「HAL9000のスクリーンセーバ」がある。Windows版と旧MacOS版があるが、画面に表示されるのは、映画の中で出てくるあの表示画面だ。Flashアニメーションのものは出来もよく、ディスカバリー号のコンソールの雰囲気をうまく再現している。LinuxやMacOSXユーザーは、Flashのファイルそのものもダウンロードできるので、自分でスクリーンセーバユニットを作ることもできるのではないだろうか。
 このスクリーンセーバ、デフォルトではHAL9000があの声でときどき「喋る」。オフィスなどでこのスクリーンセーバを設定していると同僚を驚かせること必至なので、音声をオフに設定しておくことをおすすめする。

 蛇足だが、この映画が製作された1968年には、フラットなカラーディスプレイなどあるわけもなく、撮影時にはリアプロジェクターによって苦心してひとつひとつの画面を表示していたとのことだ。1984年に製作された続編の「2010年」"2010"では、コンソール画面に本物のブラウン管のディスプレイを使っているのだが、今見るとなんだかとっても古臭い。いや、前作を知る者が見れば1984年当時でも古臭く見えたはずだ。ローテクが生んだ苦肉の策がむしろ未来のインタフェイスを予言しているというのは皮肉だ。

 いまでも書架に置いてあるのが、"Making of Kubrick's 2001"という本。こちらは、ジェローム・エイジェル編の「2001年」の撮影秘話から、公開後の反響、作品に対するさまざまな解釈、社会的な影響まで網羅した有名な著作である。俺も中学のときこの原書を入手し、辞書を片手に悪戦苦闘しながら読み進めたが、それでも大変面白かったのを覚えている。このペイパーバックの中ほどには、有名な「無重力トイレ」の注意書きが全文掲載されていた。このページのコピーをとって、自宅のトイレや高校の男子トイレの前に貼っておいたが、このジョークをわかってくれるひとは、我が家にもわが高校にも皆無だった。
 それにしても、この映画の公開から、当時ですら十数年経っていたのに、洋書を扱っている書店で、数冊も入荷しており、簡単に入手できたのは、いまから考えてもなにやら不思議な感じがする。

 こちらのサイトでは、山川コタチさんという方が、日本では未刊行におわったこの本の全訳をおこなっている。わかりやすい訳で改めて読んでみると、やはり興味深い発見がある。まあ、当時中学生だった俺に英語力が決定的に不足していたことは間違いないが、今だってさして変わりはしないのが大問題である。

| | コメント (3) | トラックバック (0)

2005.06.06

永遠の一瞬

 日曜夜、NHK総合テレビで、NHKスペシャル「一瞬の戦後史 ~スチール写真が記録した世界の60年~」を見た。有名なロバート=キャパや、昨年死去したアンリ=カルティエ=ブレッソンらが結成した写真家集団マグナム。ここに属していたカメラマンの捉えた報道写真を中心に、戦後60年の激動の世界を描いていこうというドキュメンタリー。

 キャパの撮った解放直後の戦後のフランス。パリ解放のとき、髪を丸刈りにされ、群衆にさらされている女性の写真がある。彼女はドイツ兵との間に生まれた赤子を抱いているのだ。彼女は言いようがないほど悲しい顔をしているが、対照的に周囲の群衆はみな彼女を嘲笑している。大衆というか、群衆というものの残酷さを感じるよ。

 スタインベックとともにソビエトを訪れたキャパの一連の写真も紹介された。当時のソビエトの農村で微笑む女性や子供の写真。彼は、世界のどこにでもいるような、屈託なく笑う気のいい中年女性を撮ることで、鉄のカーテンの奥深くで、謎に満ちていた当時のソビエトの人々の姿を伝えようとした。しかしその後、キャパはスタインベックともども合衆国政府からコミュニストというレッテルを貼られることになる。

 マルク・リブーの撮った、アメリカ、ペンタゴン前でのベトナム反戦デモに、銃剣を突きつける軍隊にたいして一輪の花をささげる少女。写真の彼女はその後、ヒッピー生活をおくり、アルコールやドラッグに浸りきった生活をしていたという。しかし、彼女には娘が誕生し、その成長とともに彼女自身も次第に立ちなおった。2003年のイラク戦争の折には、「娘の将来のために」再び反戦デモに参加したという。

 ほかには、イラン革命で民衆に撲殺されたパフレヴィ前国王支持の女性の写真や、ボスニアで民兵がムスリムの中年夫婦を射殺する場面を捉えた写真など。惨い写真だが、それは20世紀を埋め尽くしている無数の悲劇のほんの一瞬を切り取っているにすぎない。

「真実を伝えるためには、被写体にもっと近づかなければならない」というのは、番組の冒頭でも紹介されたキャパの言葉だ。彼の残した写真そのものが、彼の信条を物語っている。戦場で命を落とした彼は、やはり真実に近づきすぎたのだろうか。
 被写体から遠ざかるほど、マクロな視点で全景を見ることができるかもしれない。しかし、カメラマンもまた一人の人間であり、神の視点を持っているわけではない。
 すでに我々は、湾岸戦争の映像によって、空から見た戦争が、ひどくゲームじみて見えることを知っている。さらに高空から見れば、無数の戦争が起こっていることさえまったくわからない美しく青い惑星が見えてくることだろう。しかし俺たち人間は血と肉でできた破れやすい袋。それがその惑星の薄っぺらい地表に這いつくばって、なんとか生きている。

 奇しくも同日、衛星第2放送で放送された「迷宮美術館」のなかで、ピカソの「ゲルニカ」の製作過程が紹介され、こちらも興味深く見たけれど、「画家は目だけをもっているのではない」というピカソの言葉は特に印象に残った。報道カメラマンとて、現実をフレームの中に切り取るのはあくまでカメラマンの心眼。

 そういえば「ゲルニカ」も、キャパを一躍勇名にした「崩れ落ちる兵士」も、同じスペイン内戦を扱ったものだったね。

「一瞬の戦後史 ~スチール写真が記録した世界の60年~」は、火曜の深夜、正確には6月8日水曜日の午前0時15分から再放送される。深夜だが、できるかぎり多くの人に見てほしいと思う。

| | コメント (4) | トラックバック (2)

2005.06.02

大滝詠一「ロング・ヴァケイション」

lv

 このアルバムは、ある世代にとってはあまりに定番だし、アルバムや楽曲そのものについてはすでに語り尽くされているだろう。だからここでは、個人的な感慨について書かせてもらう。

 俺がこのアルバムをはじめて聞いたのは、中学2年生の夏休みだった。だからこのアルバムを通して語られる、明るいビーチや彼女との愛車でのドライブなどの、青春映画のワンシーンのような経験など、まだ体験できる筈もなかった。当時の友人たちと同じように、俺もまたこれらの楽曲に描かれているような、甘酸っぱくさわやかな恋をしてみたいとただ憧れていた。

 しかし俺が実際に高校に入ったころは、音楽の好みもかわり、洋楽ばかり聴いていた。もう記憶もあいまいなのだが、高校生になってからは、あれほど好きだった「ロング・ヴァケイション」を聴くこともほとんどなくなったのではないだろうか。ただ、誰にでも一度はある、ひどくアツくなってしまう恋の時代は、なんだか子どもっぽかった中学生時代にではなく、もう少しおくれて、まさにこの頃やってきた。

 もっとも、高校時代や大学時代の実際の恋愛模様は、さまざまな障害や紆余曲折もあったから、あのアルバムの世界のような明るいものでは決してなかったけれどもね。

 高校時代や大学時代を遠く過ぎた今になって、夏が近づくとなぜかこのアルバムが聴きたくなる。実際は数えるほどしかなかったはずの、夏の日差しの下での楽しい思い出が、鮮やかに蘇って、おもいっきり美化され、ひどく懐かしく感じられる。過ぎ去った時間はまるでバラ色だったかのよう。俺も歳をとったなあと感じる瞬間だ。

 愛読させてもらっている「ロック世代のポピュラー音楽史」「英雄列伝 大滝詠一」の項にこんな言葉があった。

「時代が変わり、21世紀初頭の不況のどん底になっても、「ロング・ヴァケイション」を聴くたびに、あの時代の記憶は見事に甦ってきます。それは、やはり音楽のもつ不思議な力なのでしょう。なんだか自分が未だにロング・ヴァケイションの続きを楽しんでいるような気分にさせてくれる音楽、そんな音楽も人間には必要です。」

 ね、開き直ってもいいよね。


| | コメント (2) | トラックバック (1)

2005.06.01

PC-9821Xs

9821xs

 1995年にインターネットにはじめて接続して以来、2000年まで愛用のデスクトップPCはすっとこのNEC PC-9821Xsだけだった。これは1994年に自分ではじめて新品で買ったPCだ。

 購入当時、セットアップを手伝ってくれたPC-9821As(いわゆるA-MATE)ユーザーだった友人が「なんか安っぽい」とケチをつけたのを覚えている。PC/AT互換機との価格競争が激しくなったころは、PC-98がPC/AT互換機寄りに徐々にアーキテクチャを変えてきていたころでもある。そのためか確かにA-MATEよりもつくりが安っぽかったことは事実だ。でも、友人から譲り受けたV30搭載のPC-9801VMを長く使ってきた俺には、486DX2 66MHzでもムチャクチャ速く感じられたから、当時はなんとも思わなかった。Windows95登場時にモデルチェンジされた新型PC-98では、ついに筐体までも海外生産となり、コストダウンのためかデザインもさらに安っぽくなって、Cバスの手回しネジやコインで開けられる筐体のネジもなくなってしまっていたから、それに比べたらこいつはまだましなほうだった。
 Cバスは3つと、A-MATEよりひとつ少なかったが、メモリは96MBまで増やすことができたし、グラフィックチップのVision864も当時としてはそこそこ速いものだった。A-MATEで標準の26系FM音源は搭載していなかったものの、ほとんどPCでゲームなぞしなかった俺は、PCM音源がついていればそれでよかった。

 この機械はCPUをアップグレードし、メモリ、HDD容量を増やすことで、結構長い間メインマシンとして使うことができた。OSもプリインストールのDOS5.0+Windows3.1にはじまり、Windows95、やや無理をしてWindows98まで使った。CPUも標準の486DX2からPentiumODP83MHzに、メモリも5.6MBから96MB、HDDは標準の340MBから内蔵可能最大容量の4.3GBにまで増強した。後継のデスクトップPCを購入した後も、格安JUNKでPC-9821V200を入手するまで、音楽用PC(シーケンサ)として長く活躍していた。

 その後、2000年から2001年にかけひどい体調不良で、長く入院したことがあったのだが、退院後の療養期間にもあまり外出できず、安価に入手したジャンクPCをいじって暇つぶしをしてすごすことが多くなった。ジャンク屋や友人から、新旧とりまぜていろいろ部品やPCを買ってきたり譲り受けたりしたため、PCの台数だけは増えていった。

 何台かは処分したし、ひとに譲りもした。しかし、この機械だけは、引退させても愛着あるPCだったので、どうにも手放すことができないでいた。機械はなんでも壊れるまで使い、壊れても直して使う主義だったので、この機械もずっと置いておきたかった。しかし、家電リサイクル法を前に、ついに処分を余儀なくされたのだった。

 この写真は、廃棄する前に、デジカメで記念に撮った一枚である。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

« 2005年5月 | トップページ | 2005年7月 »