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2005.07.02

「きけわだつみのこえ」 その3

その3

 今日こそは本題に入ろう。日本戦没学生記念会編「きけわだつみのこえ 日本戦没学生の手記」(岩波文庫)の中から、こころ惹かれた部分をいくつか紹介させていただく。

★佐々木八郎
  東大経済学部生 1945年4月14日、特攻隊員として沖縄海上にて23歳で戦死

「我々がただ、日本人であり、日本人としての主張にのみ徹するならば、我々は敵米英を憎みつくさねばならないだろう。しかし、僕の気持ちはもっとヒューマニスチックなもの、宮沢賢治の烏※と同じようなものなのだ。憎まないでいいものを憎みたくない、そんな気持ちなのだ。正直な所、軍の指導者たちの言う事は単なる民衆扇動のための空念仏としか響かないのだ。そして正しいものには常に味方をしたい。そして不正なもの、心驕れるものに対しては、敵味方の差別なく憎みたい。好悪愛憎、すべて僕にとって純粋に人間的なものであって、国籍の異るというだけで人を愛し、憎むことは出来ない。もちろん国籍の差、民族の差から、理解しあえない所が出て、対立するならまた話は別である。しかし単に国籍が異るというだけで人間としては本当は崇高であり美しいものを尊敬することを怠り、卑劣なことを見逃すことをしたくないのだ。」

※引用者注
 宮沢賢治の烏と山烏の戦争を描いた物語「烏と北斗七星」に登場する烏のこと。手記の前段には、主人公の烏の言葉が、賢治を敬愛した佐々木氏によって引かれている。敵である山烏を倒し、死骸を葬りながら言う。「ああ、マジエル様、どうか憎むことのできない敵を殺さないでいいように早くこの世界がなりますように、そのためならば、わたくしのからだなど何べん引き裂かれてもかまいません」と。
 ちなみに文中の「マジエル様」とは、北斗七星のこと。主人公の烏は北斗七星をそう呼ぶ。この作品は「注文の多い料理店」所収だが、現在では「青空文庫」でオンラインにて読むことができるので、興味ある方はぜひ読んでみてほしい。

※追記
 「烏と北斗七星」を取り上げたサイトはいくつかあったが、こちらのサイトでは、この作品のテキストににイラストを配置し、オンラインで読める絵本のような体裁にされていて興味深い。
 こちらのサイトだと、縦書きで読めるようになっているらしいのだが、残念ながらLinux+Firefoxでは縦書きで表示することができなかった。WindowsのIEだとうまく表示できた。


 そういえば、やけにたくさんコメントのついた愛国心についてのエントリに対するコメントのなかで、中国のやったことには無批判だとかいろいろ書かれた方がいたが、そういう意味で反論にかえて、俺の自分の学生時代の最後の年に起こった、天安門事件への思いを記しておく。
 「人民解放軍」は「インタナショナル」を歌う非武装の学生たちさえ、戦車で蹂躙した。当時まさに同じ学生だった俺は、友人が書き上げたこの事件を糾弾するビラを、学内や街で怒りをもって配ったのをはっきりと覚えている。

「正しいものには常に味方をしたい。そして不正なもの、心驕れるものに対しては、敵味方の差別なく憎みたい」

 俺もかくありたいと、心から思う。


★中村徳郎
  東大理学部生 1944年フィリピンで行方不明。25歳

(1943年)4月28日
「穂高の岩場ですんでのところで死ぬべかりし命、しかもそれは結局4年とはもたなかった※。色々とあの晩のことが思い合わされる。恐らく彼もまた戦車の中に屍を埋めたのではあるまいか。私の生活に切実に近似した、遠いけれども迫った事象ではある。」

(1943年)5月15日
「そういうことを考えると、またしても歴史を読みたくなる。広く深く私たちは歴史を探って見なければならぬ。そうすれば必ず他愛ない自己礼賛や自己満足の夢に耽っておられなくなるはずだ。この夢ほど国を殆くするものはない。自惚れた国で興隆した国はない。」


※引用者注
 山を愛した中村氏は、かつて北アルプス穂高連峰で遭難死しかけたドイツ人青年、カールビルスを夜を徹して救助したことがあった。しかし中村氏は、そのドイツ人青年が上等兵としてスターリングラード攻防戦で戦い命を落としたことを、知人に知らされる。その中村氏も、ドイツの友人のあとを追うように翌年フィリピンの奥地に消えていった。
 どういう因果か、現在俺は生徒や学生に歴史を講義する身であって、中村氏の言葉は常に俺の胸の奥底にあり、一種の道徳規範として作用している。


★山根明
  東大文学部社会科学科学生 1945年7月、華南長沙にて戦病死。

昭和18年(1943年)10月11日
「一体私は陛下のために銃をとるのであろうか、あるいは祖国のために(観念上の)またあるいは私にとって疑いきれぬ肉親の愛のために、更に常に私の故郷であった日本の自然のために、あるいはこれら全部または一部のためであろうか。しかし今の私にはこれらのために自己の死を賭すると言う事が解決されないでいるのである。二年前の今頃のように死の恐怖に襲われて真夜中に起き出して鏡に映った自分に死の影を見出していた頃ならば、そしてその唯一の救いの道として私が選んだ殉教者の道に憧れていた頃ならば、ただ命を投げ出すという事のためにだけでも喜んで飛行機に乗り潜水艦にも乗ったと思うのだが、先日亡くなった老作家のように、「自分のようなものでもどうかして生きたい」と言う感じを持っている現在の私にどうして銃を持って戦線に赴くことができるのだろうか。灯を消して部屋の窓からますます冴えきった十三夜の月をながめ、凍りついた雪のような白い夜の雲を見ていると私の飛行機へのろうとしていた覚悟が実際夢のように思われる。」

※引用者注
 俺にとって「愛国心」という言葉がどのような意味をもっているのかということは、かつてエントリとして書いたことがあるのでここでは再び書かないが、戦場で死んでいった兵士にとっても、あるいはおぼろげなものにすぎなかったのかもしれない。

「きけ、わだつみのこえ」に収められた手記は、偏った思想をもった一部の学徒のものであり、当時の一般的な出征学徒のメンタリティを反映していないなどと批判する者もいる。しかし、ここに手記を残した彼らは、かつてこの国のはじめたあの悲惨な戦争において、ただ一兵士として戦い、死んでいくことを自覚しつつ、あえてこれらの手記を書いたのである。想像力ある人なら、色眼鏡なしにこれらの手記を読んでみていただきたい。

 個人的には、彼らの魂は決して東京・九段のあの場所にはいないと思っている。

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コメント

初めまして。その「愛国心」についてのエントリーを、少し前にTBされていたのを拝見してから、時々新しい記事も読ませていただいていました。

高校の時、日本史の先生の弟さんの手記が"わだつみのこえ"の中にあると友達から聞きました。受験のための選択日本史だったのですが、授業では趣味の話を楽しそうにされる、先生の姿しか記憶にはなく、心中を語られると言うこともありませんでした。
だからどうと言うわけではなかったのですが、このエントリーを読ませていただいて、遠くの方からポーンと投げられた小石に、今頃コツンと当たったような気がしました。

すみません、ずいぶん抽象的な話ですね。でも思うことがあったと意思表示をここでしないといけない気になりましたので。

投稿: winter-cosmos | 2005.07.03 16:41

前にもあちこちで書いたような気がしますが
わし、バイク仲間と広島にツーリングし、8月6日の朝、原爆ドーム前で黙祷する、というのを何年も続けました。
宮澤賢治の「烏と北斗七星」が、戦場に赴く青年の心にあったというのには、ずきん、としました。
「きけ、わだつみのこえ」有名すぎて読んだつもりになっていて、全部まともには読み通してなかったことに気付きました。読み直します。

投稿: 龍3 | 2005.07.05 00:34

>winter-cosmosさん

 コメントありがとうございます。

 あの本にはwinter-cosmosさんの先生の弟さんの手記が載せられているのですか。お兄様である先生は、手記をお読みになったとき、はたしてどのようなご心境だったのでしょう。戦後に生きてきた私たちが想像することはとても難しいのですが、想像してみることは無駄ではないかもしれません。


>龍3さん

 時は流れ、私の足もバイクからクルマにかわりました。はじめて自分のクルマを買って友人と長距離ドライブした先は、広島の平和記念公園でした。若かったので、音楽を聴きながら交代で運転し、一晩中走っていきました。広島についたのは早朝でしたので、平和記念資料館が開館する時間まではそこにいられませんでした。原爆忌を数日後に控えた夏の日のことでしたね。
 そのとき撮った、原爆はまゆうや原爆の子の像の写真はいまも手元にあります。じつは私は誕生日は広島の原爆記念日で、広島にはその後、何度も訪れることになりました。


winter-cosmosさんも、龍3さんも、京都にお住まいなのですね。

 5年前私は大病をやらかし長く入院しました。その後、自分の体力が回復したことを自分で確認しようと、2002年の夏のやはり同じ頃に、九州から京都まで下道でクルマで行ってみました。
(帰りはさすがにくたばったので神戸からフェリーでしたが・・・)。

 なんとか京都にだどりつき、龍安寺、京都国立博物館、「わだつみの像」のある立命館平和ミュージアムなどを見学しました。そういえば私は父が幼い日に死んだことがきっかけで神仏を恨み、いまでも無信心なのですが、このときは母親に懇願されて大谷にある父親の納骨堂にも線香をあげてきました。そこでいろいろなポスターなどを見て、真宗大谷派が戦争や憲法改正に反対しているということを知り、へぇ~と思ったのを覚えています。

 そういえばそのとき、立命館平和ミュージアムには、長野の「無言館」から戦没画学生の絵が数点やってきていました。今度はもういちどバイクを購入して、いつぞや果たせなかったバイクによる信州入りを果たし、そいつに乗って「無言館」に行ってみたいなと思いました。

 じつは小学生のとき、夏は弟と一緒に八幡市の親類の家によく預けられました。京阪橋本駅でおりてずっと男山のほうへいき、石清水八幡宮に山がわから参拝できるようなところでした。


広島平和記念資料館
http://www.pcf.city.hiroshima.jp/virtual/

真宗大谷派(東本願寺)
http://www.tomo-net.or.jp/

浄土真宗本願寺派(西本願寺)
http://www.hongwanji.or.jp/

立命館大学国際平和ミュージアム
http://www.ritsumei.ac.jp/mng/er/wp-museum/

投稿: Rough Tone | 2005.07.05 03:50

ちょっと内容違うかな~と思わなくもないですが、TBさせていただきました。

もう二度と、日本人が同じ過ちを繰り返さないよう祈るような気持ちです。

投稿: でこぱ | 2005.07.22 01:31

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