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2005.07.12

宗教は阿片

 世にはさまざまな「神さま」がいらっしゃるようだが、残念ながら俺は宗教をまったく信じない人間であって、無神論者であると自称することは、むしろ誇らしいと思ってきた。これまでもこのブログで「神は不遜だ」と書きなぐったり、「神は悪である」と言った19世紀の詩人を引用してきたた。

 何度か書いたと思うのだが、「神が人間を創造したのではなく、人間が神を創り出した」という悪魔的で魅力的な考えがある。そして神は神の姿のまま我々の前に現れるとはかぎらない。時に熱烈な「愛国心」として、あるいは揺るがぬ「正義」として垂迹し、我々の前にあらわれる。
 また、神は非合理主義のばけものでもある。人間というものは、理解することのできない不思議なものを非常に恐れるから、その利用価値が失われぬかぎり「神」は繰り返し生産され、消費され、利用されつづけることだろう。
いつの時代も、現在の宗教をめぐる対立の根幹は、神の存在を信じる人々の集団が、互いの神を認めず、自分たちの神の名のもとに争っていることだ。それだけでも神の非存在の根拠となりはしないだろうか。

 マルクスは「宗教は阿片だ」と言った。俺もおよそそのように考えているが、無論旧ソ連のように宗教を抑圧すればいいなどとは思っていない。
 残念なことに、地球上の大部分の人々にとって、生きていくということは、そのまま不平等や貧困に苦しむことを意味している。阿片やモルヒネは末期がん患者の痛み止めに古くから用いられてきたが、それ自体では決して病状の回復につながることはない。しかも、ひどい依存性や常習性がある。
 しかし、神を信じるということが、がん患者を地獄のような痛みと苦しみから、ひとときでも解放してくれるようなものであるならどうだろう・・・。

 「世界から差別や貧困がすべてなくなれば宗教は存在意義を失う」という考えを今も俺は支持している。これは平和について語るとき、あちこちのブログでとりあげられるジョン=レノンの「イマジン」のなかでも歌われていることである。理想社会がどこかにあるならば、おそらくそこに神の玉座というべきものはない。わざわざ神を倒さずとも、差別や貧困、憎悪などをこの世界から葬ることによって、神に退位を迫ることができはしないか。

我々の、特に我々の科学の歴史とは、全能の神から、その権限を戦いとってきた歴史なのである。

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コメント

僕も何度か自分のブログなどで書いたのですが、アウシェヴィッツやヒロシマ、ナガサキをはじめとする地上の地獄図に対して、なすすべのなかった神は、どんな言い訳をしようと神とはいえないでしょう。
キリストがもし現在の世界に出て来れるものならば、「神の教えを説いて回った自分は間違っていた。聖書に書かれている奇蹟などは、すべて弟子たちや後世の者による作り話や誇張である」として、すべての人々に謝ってほしいものです。

投稿: BANYUU | 2005.07.13 14:16

こんにちは

 BANYUUさんの文章には、表の記事にも裏の記事にもいつも大いなる刺激となにやらの示唆を受けます。特に「スマトラ沖大地震になすすべがない神とは」というBANYUUさんの記事には感銘を受けまして、本文でも言及した記事をトラックバックさせていただきました。

 なぜヒトはカミを信じるのでしょうか。ヒト以外の動物はあきらかにそんなもの信じていませんよね。

以下は私の空想です。

 太古に黒い石版かなにかに触れて(笑)、脳を進化させたヒトは、過去の優れた人物の存在や、そのヒトが成し遂げたこと、発見したことを、そのヒトがいなくなっても、言葉や文字で語り継ぐことができるようになった。だから、知識の集積は文明を生み、科学は進歩した。

 でも、人間の記憶はあまりあてにならなかったし、無意識に、あるいは意図的に、誇張や偶像化もおこなわれる。偉大な発明や発見をしたヒトや、みなを教え導いたヒトはやがて自然にカミになった。権力にあふれたヒトは、いとも簡単に短時間のうちに、おそらく生きているうちに、望んでカミに祭りあげられた。またそのような権力に抗い無残な死を遂げたヒトも、彼の支持者や崇拝者によってカミとされてきた。

 そしてもちろん、誰かをカミに祭り上げることによって別の誰かがすごく得をするということもあった。

 過去を振り返ればやや自信がありませんが、私は、過去や現在の優れた人物に対して尊敬することはあっても、カミのように崇拝するようなことは決してしないでいようと思っています。

投稿: Rough Tone | 2005.07.15 02:17

>神の存在を信じる人々の集団が、互いの神を認めず、自分たちの神の名のもとに争っていることだ。
 うーん、ワタシは逆に思うんですよね。
 集団の指導者やリーダーが、他の集団と争う際、集団凝集性を高めるための道具に、宗教を、神を使っているように思うんです。
 というのも、他の宗教と戦えなんていう教義は、メジャーな宗教(カルトを除く)には一切ないからです。
 イスラム教なんてとくにそう。昨今の過激派のせいで、イスラムは厳格とか好戦的と誤解されてますけど、それって過激派が勝手に解釈を変えているだけで、ホントのイスラム教の教えなんてものすごくゆるゆるですもん。何でも許しちゃう。
 ではなぜ争うのでしょうか。争った時のほうが指導者に利益がもたらされる時に争いが起こると、ワタシは思っています。

 あと、
> 「世界から差別や貧困がすべてなくなれば宗教は存在意義を失う」
 ワタシはそうは思いません。
 差別や貧困以外でも、人は苦しみます。
 人がいる限り、人は苦しみ、人の苦しみがある限り、宗教は存在するでしょう。

投稿: さいと | 2005.07.15 03:37

さいとさん、コメントありがとうございます

コメントを読ませていただいて、釈迦の言った四苦すなわち「生老病死」を思い出しました。差別や貧困以外でも、人は苦しむ。人がいる限り、人は苦しむ。もっともなことだと思います。仏教の思想には ときどき哲学的な示唆を得ます。

コメントをいただいたBANYUUさんのブログのこの記事

「絶えず物質が入れ替わっている自分の実体とは」
http://banyuu.txt-nifty.com/21st/2005/06/post_50b9.html

を読んで「色即是空」という言葉を思い出しました。これは、クマーラジーヴァの言葉だそうで
釈迦をはじめ、仏教の先達は宇宙や精神について意識した偉大な哲学者であったと思っています

 私は以前のいくつかのエントリでも触れましたが、イスラム教などの宗教がはじめから悪であったとはまったく思っていません。宗教に人生を救われた人も多いことでしょう。ただ、歴史を見れば その罪悪のほうが明らかに多いのも事実です。私に言わせれば、戦争に利用される神は悪です。正しく全能な神ならそれを許さないはずだと思うからです。

 私は個人の心の問題も、いずれは神ではなく人間自身が解決できるような世界を望みます。


「どの国も、どの宗教も、どの経済体制も、どの知識も、私たちが生き残るのに必要な答えのすべてを持ってはいない。いまある社会体制よりも、はるかによく機能する体制が、数多くあるに違いない。科学的な伝統の中でそれを探すのは、私たちの義務である。」
----カール・セーガン「COSMOS」木村繁訳----


 以下は過去の、宗教観や無神論に関係する(と自分では思っている)エントリです。(新しいもの順)

「薔薇の名前」
http://roughtone.air-nifty.com/passing_strangers/

「Wish You It Could Be Christmas Everyday?」
http://roughtone.air-nifty.com/passing_strangers/2004/12/wish_you_it_cou.html

「転落の危機」
http://roughtone.air-nifty.com/passing_strangers/2004/11/post_3.html

「進化論とキリスト教原理主義」
http://roughtone.air-nifty.com/passing_strangers/2004/11/post_1.html

「まつりあげるな、とチクタクマンは言った」
http://roughtone.air-nifty.com/passing_strangers/2004/09/post_2.html

「イマジニア」
http://roughtone.air-nifty.com/passing_strangers/2004/05/post_15.html

「とはずかたり」
http://roughtone.air-nifty.com/passing_strangers/2004/05/post_13.html

「『悪』それは戦禍、あるいは神」
http://roughtone.air-nifty.com/passing_strangers/2004/05/post_8.html

「神々の名のもとに」
http://roughtone.air-nifty.com/passing_strangers/2004/05/post_2.html

「科学と魔法」
http://roughtone.air-nifty.com/passing_strangers/2004/05/post_1.html

「バベルの塔」
http://roughtone.air-nifty.com/passing_strangers/2004/04/post_2.html

投稿: Rough Tone | 2005.07.15 05:56

 こんにちは。どうもです。

 神とは、人が生きるために生み出した、「道具」でしょう。
 実際に神が何かをするわけではありませんよね。

 ではなぜ「全知全能」なのかというと、あらゆる出来事を神のせいにできるからでしょう。そうすることで、どんなに納得できない出来事が起こっても、それを神のせいにして、納得することができるからです。どんなに不幸なできごとも、「神から与えられた試練」として納得することができる。納得できた人間は、強いです。


 そして、道具である以上、いいことに使うことも、悪いことに使うこともできます。どんな道具でもそうです。

>歴史を見れば その罪悪のほうが明らかに多いのも事実です
 とおっしゃいますが、そんなのは宗教に限らず、どんなことでも当然のことだと思うんですよ。
 いいことは滅多にニュースにはならないし、歴史にも残らない。悪いことだからこそ、ニュースになり、歴史にも残る。そう思うんですよね。
 たとえば、自動車という道具によって年間9000人近くが殺されています。自動車は環境も破壊します。しかしそのニュースや歴史だけをとって、自動車は罪悪のほうが明らかに多い、と言う人はいませんよね。
 同じように、宗教という道具によって、宗教対立や戦争などが引き起こされたりしていますが、歴史の陰で宗教に救われ癒されている人間がいることを忘れてはいけないと思うのです。
 我々は自動車の恩恵を受けているから、自動車は罪悪だとは思わない。同じように、宗教の恩恵を受けていたなら、宗教は罪悪だとは思わないと思うんですよね。


 宗教が社会を作り、宗教が善悪を決め、宗教が文化を作る。宗教というのは、日常生活に非常に密着したものです。しかし、そういう事実に気づいていない人が多いなぁと思います。人は、身の回りに当たり前にある空気や重力に、当たり前であるがゆえになかなか気づかなかったように、今持っている宗教観を宗教観とはなかなか気づかない。無神論も、それがひとつの宗教だと言えなくもない。


 ちなみにワタシは、神がいることを確認したことはないけど、いないことも確認したわけじゃないので、有神論者ではないですが、無神論者でもないです。(神様を信じないのは宗教学者と社会学者と心理学者だそうですが、ワタシは宗教学と社会学と心理学をかじったことがあったりします。ははは)
 だけど、神がいようがいまいが、人間が主体的に判断できるようにならないとアカンやろうなぁ~とは思いますね。

投稿: さいと | 2005.07.27 02:58

さいとさんこんにちは、コメントありがとうございます。

>> ではなぜ「全知全能」なのかというと、あらゆる出来事を神のせいにできるからでしょう。そうすることで、どんなに納得できない出来事が起こっても、それを神のせいにして、納得することができるからです。どんなに不幸なできごとも、「神から与えられた試練」として納得することができる。納得できた人間は、強いです。

 そうですね。それは私もまったくそのように思います。「どんなに不幸なできごと」だけでなく、人の行ってきた「どんなに残虐なできごと」も「神の正義」ということにして、人々を罪の意識から救ってきたともいえます。
 ただし私は現代の宗教がもつ積極的な意味まで否定しようとは思っていません。一部の宗教者の平和への取り組みは尊敬していますし、ダライ=ラマ法主や前ローマ教皇ヨハネ=パウロ2世は尊敬しております。

>> 我々は自動車の恩恵を受けているから、自動車は罪悪だとは思わない。同じように、宗教の恩恵を受けていたなら、宗教は罪悪だとは思わないと思うんですよね。

 宗教の開祖や巨大な教団など、宗教という事実の存在は否定いたしません。また私は宗教をこの世から直ちになくしたほうがいいなどとは考えていません。それはそれでアホなことであることは十分判っているつもりです。

 さいとさんは宗教を自動車にたとえていらっしゃいますが、私は「科学」を自動車に、「宗教」を、そうですね、たとえば「馬に乗ること」にたとえることにします。

 私も毎日自動車を運転します。利便性や移動の自由や快楽も、そして危険性も承知してはいるつもりではいます。自動車やコンピュータなどの現代文明の産物は、それに依存してしまうようになると、その力を自分の能力とを錯覚し、他者への配慮が欠けてしまいがちになるという点では、狂信的な宗教とおなじであるといえるかもしれません。悲惨な事故のニュースを聞くたびに、さらに安全でもっと社会にとってよい乗り物にならないものかと思います。
 多くの人が自動車に乗る時代になろうと、乗馬を好むことはもちろん悪ではありません。問題は、自動車に乗る人も乗馬する人も共存できる交通社会が実現できるか否かです。道のりは困難を極めそうですが、けれども私は自動車を人や自然を傷つけない乗り物に進化させようという試みを支持したいということなのです。

>>人は、身の回りに当たり前にある空気や重力に、当たり前であるがゆえになかなか気づかなかったように、今持っている宗教観を宗教観とはなかなか気づかない。無神論も、それがひとつの宗教だと言えなくもない。

>> ちなみにワタシは、神がいることを確認したことはないけど、いないことも確認したわけじゃないので、有神論者ではないですが、無神論者でもないです。

 以前のエントリで書いたことをいくつか引用いたしますね。

「科学者の『他の惑星に生命がいるか』という問いかけと、宗教を信じられない者の『神は存在するか』という疑問は、一見似ているようだ。「存在することを(今のところ)証明できない」という点では同じだからである。しかし「存在しないことを立証できない」からそれが「存在する」という立場には、宗教者ならともかく科学者を標榜するものなら少なくとも絶対に立つことはできないはずだ。」

 科学もまたひとつの宗教だという見方もありますが、おそらく私は「無神論を信じている」のではなくて、科学の認識方法と思考方法を支持しているために、「神の存在を信じることができない」のでしょう。

「アメリカの一部の科学者には、深宇宙の観測や核物理学の分野で、ゆるぎない証拠を見出して科学的に神の存在を証明しようとしている人々もいるという。こういう動機は俺の好みではないが、宗教上の問題に科学者が接近するのなら、こういうアプローチでなくてはならないだろう。もしかれらの研究になんらかの成果があったとき、俺のような無神論者は悔い改めなくてはならないのかもしれない。」

>> だけど、神がいようがいまいが、人間が主体的に判断できるようにならないとアカンやろうなぁ~とは思いますね。

まったくおっしゃるとおりです。

 私には、迷信深くかつ利己的な人間にとって、主体的に判断するための数少ない手段のひとつが「科学的思考」なのではないかと思えるのです。

投稿: Rough Tone | 2005.07.27 04:21

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