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2005.08.09

ふたつの都市をめぐる運命

 長崎には、伯父一家が住んでいる。父と同じく、佐賀県の有田生まれだが、のちに長崎へ移り住んだ。幼い頃父や伯父に連れられて、いとこたちと一緒に長崎のいろいろな名所につれて行ってもらったようだ。おぼろげな記憶にあるのは26聖人殉教の地や、グラバー邸に行ったこと。それらの写真にまじって、長崎の平和祈念像の写った写真がアルバムに残っているのだが、俺自身はこの場所へ行ったことをまったく覚えていない。

nagasaki

 大学生になってから、祈念像と対面した。長崎の街は全般的に駐車場が少なく、坂道が多くて慣れないと自動車ではやや移動しにくい街だが、このときはバイクだったのでわりとスムーズに移動することができた。そして改めて目にした平和のモニュメントは、想像以上に巨大で力強く、とても感銘を受けたのを覚えている。


 そういえば、長崎の原爆をめぐるもうひとつの小さなモニュメントが、俺の住む街にある。

 プルトニウム原爆「ファットマン」は、小倉市(現・北九州市小倉北区)が初期の目標であったが、当日になって急遽長崎に変更された。天候不順が原因だとよく言われているが、じつは前日に行われた八幡への爆撃によって起こった市街地の火災の煙が小倉方面へ流れ、原爆投下の任務にあったB29ボックスカーから投下目標地点の目視確認が不可能だったというのが真実のようである。

 八幡製鉄所のあった八幡への空襲というのは、1944年6月16日にはじめておこなわれ、このとき八幡の市街地もおよそ焼けてしまっていた。当時八幡にあった俺の母方の祖父の家も例外ではなく、この爆撃によって焼けてしまい、一家は焼け出されたと聞かされた。誰も死ななかったのが不幸中の幸いであったということも。その後、祖父一家は嘉穂郡小竹町への疎開をへて、戸畑市に転居する。

 1945年6月1日、米国陸軍航空軍はなんとその八幡製鉄所爆撃一周年を記念して、もういちど「八幡製鉄所を目標とする記念爆撃」なるものを行おうとしたらしい。「記念爆撃」という言葉は、日米両軍にあったであろう、戦時の異常な心理が感じられる、非常にいやな言葉である。

 しかし、このときは天候不順で果たせず、かわりに兵庫県の尼崎市が攻撃目標となり、尼崎は壊滅的な被害を受けたという。

 それにもかかわらず、八幡は再び爆撃される。1945年8月8日夜のことだ。一度はうまくいかなかった「記念爆撃」をなんとか今度は成功させようということらしい。やけに執念深い。果たして八幡は再び爆撃され、それによって生じた火災の煙は翌日まで消えることはなかった。

 プルトニウム原爆「ファットマン」の第一目標である小倉には、通常爆撃を厳禁する命令が出されていたらしい。しかしわずか数キロしか離れていない八幡市に対しては特に爆撃禁止命令は出されていなかった。小倉と八幡は当時別の市であったが、工業地帯や市街地は八幡、戸畑、小倉をまたぎ、製鉄所を中心に洞海湾をとりかこむようにひとつにつながっている。結果的に八幡が爆撃されたことで、翌日の小倉への原爆投下は回避されたことになる。俺は八幡に生まれ育ったので、子どもの頃から家庭や学校でこの話はよく聞かされた。

 八幡の身代わりに尼崎が空襲を受け、さらに小倉の身代わりに長崎に原爆が投下されたわけである。それぞれの場所に住んでいた人々のその後の運命は、なんと大きく異なってしまったことか。

 現在、北九州市役所ちかくの勝山公園にある市立中央図書館の敷地には、小倉と長崎というふたつの都市をめぐるこの数奇な運命を感じさせる記念碑が建てられている。1945年当時、旧陸軍の造兵廠小倉工廠がここにあった。 造兵廠は1927年から1945年まで約12年間使われ、戦争末期には大人にまじって学徒動員の中学生や女学生までも工場で働いたという。この造兵廠がまさに原爆の当初の目標地点なのである。

 毎年8月9日になると、ここで「長崎の鐘」と呼ばれる鐘が鳴らされ、長崎の原爆犠牲者を追悼する慰霊祭が行われている。

 そして、今年もまたその日がやってきた・・・。

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コメント

「原水爆許すまじ」へのトラックバックありがとうございます。

いつも注目して、ブログを拝見させていただいております。
「被爆のマリア像」を観る度に、そのメッセージの強い磁力を感じています。

投稿: qrpp | 2005.08.16 10:30

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