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2005.08.28

「科学的思考」と「科学万能主義」

 tenjin95さんのブログ「つらつら日暮らし」から、さきに書いた「インテリジェント・デザインを信じる人々」というエントリに興味深いトラックバックをいただいた。tenjin95さんは仏教系の研究所に勤務する研究者だそうで、僧侶でもいらっしゃる方だという。非常に興味深く拝読したが、いくつか俺の思ったところを書かせていただくことにする。

>>必要なのは、世界の有り様を観ていく智慧と、智慧をたゆまずに発現していくための修行です。修行しなければ発現しないのか?といぶかる方がいるかもしれません。例えば“科学的思考”などを強硬に振りかざす方が、まさに不要と叫ぶでしょう。

 このブログで俺はまさに「科学的思考」の立場を何度も振りかざしてきたわけだが、俺がtenjin95さんとは異なっている点は、「科学的思考」と「科学万能主義」は大きく異なると考えているところである。後者の立場は、じつは科学的思考でもなんでもなくて、一種の狂信ともいえなくはない。「科学的思考」と「科学万能主義」について、俺の感じたことを少々コメントをさせていただこうかと思う。

>>最も合理的な生き方は、必要があったときに自分の思考法を変えることであり、拠り所としている特定の領域を疑い、破壊し再建する労苦を厭わないことです。

 本当にもっともなことだと思う。でも、これは科学の歴史にもあてはまる。科学の理論の歴史もまさに「諸行無常」の歴史なのだから。

 「科学的思考」とは、ある時点での観測された事実と、それから推測される事柄からものごとをできるだけ正確に知ろうとする手段であると思う。時代が変わり、新しい事実がわかれば、理論は破綻し、あたらしい理論に取って代わられる。科学は時代性をもった道具であって、絶対的な価値基準なんてものじゃない。

 仏教でいう「諸行無常」が、あらゆるものはやがてが壊れ、流転していくということに根ざした主張なら、tenjin95さんはおわかりになっていただけると思う。「物理法則」というのはなにも「神の裁きの手段」ではなく、「諸行無常」の真理とおなじように、「見える世界だけでなく、見えない世界までも、できるだけ正確に知ろう」というときに、一種のものさしとなるものであると、俺は考えている。

>>科学万能主義も宗教万能主義も要らない。むしろ万能なんて事があり得ない、事象の限界を見定めて、限界の中でどうするかを考えて生きていきたい拙僧でした。

 多くの科学者も、決して自分では行くことができない世界のことを考えたり、生きている間にはおそらく解明できないであろう多くの謎に取り組んでいる。俺も「事象の限界を見定めて、限界の中でどうするかを考えて生きていきたい」という考えには大いに賛成できる。

 そういう意味では、「科学は万能である」などという科学者がいたとしたら、その科学者は歴史の残る新発見ができるようなすぐれた科学者じゃないだろう。ガリレイやアインシュタインも当時の科学界に巣くう守旧派に攻撃された。彼らの立場は宗教改革者を否定し、旧い教義にしがみついたある種の宗教者たちと同じである。

 tenjin95さんに対して反論めいたことを書いてしまったが、先に述べたように、俺はこの記事だけでなく、tenjin95さんの文章をいろいろ興味深く拝読したのも事実だ。じつは科学と宗教の問題を考える上で、興味があるのは仏教の思想だ。俺の尊敬する科学者、故カール=セーガンは、晩年ダライ=ラマとながい対談をおこなった。また科学者でSF作家のアーサー・C・クラークも、未来社会には一神教はもはや支持を失い、仏教しか生き残っていないような社会のことを書いている。

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コメント

> 管理人様

TB並びにコメントありがとうございます。

そこで、一点だけ。。。もしかしますと、拙僧の文章の書き方が悪かったのかもしれませんが、拙僧も、「科学的思考」と「科学万能主義」は大きく異なると考えており、「科学万能主義」とは、ちょうど管理人様に引用していただいた文章にそのままあるように、「“科学的思考”などを強硬に振りかざす方」としておりまして、この「強硬さ」或いは「振りかざす」という態度こそが危険であると考えておりました。

他のログなども拝見させていただいて、余り違わないのではないかと思いましたが、違うと仰る場合には、違うのでしょう。拙僧が拝読させていただいた、管理人様の他の文章や、コメントでの遣り取りは難しすぎました。。。

ちょうど、同じ記事をブログで書かれた方が居られたので、TBさせていただきましたが、拙文を懇切に読解していただき、心から御礼申し上げます。合掌。

投稿: tenjin95 | 2005.08.28 20:35

こんばんは
先日頂いたコメントと密接に関係しそうですね。
統計などが科学的手法の一つであるならば、科学者であろうとすればするほど「絶対」とはいえなくなると思います。
「未知」や「限界」や「ジレンマ」を常に実感するのも、むしろ先端に居る科学者の方かもしれません。
科学にコミットしていない人の方が案外「科学万能」に陥りやすいのかもしれませんね。

投稿: FAIRNESS | 2005.08.28 23:58

こんにちはFAIRNESSさん

tenjin95さんとの議論は興味深いものでした。

 理性の限界を超える事態がおこったとき、絶望を回避するための道具としての機能は、科学は宗教に劣っているのかもしれません。

 未知の世界は科学の最先端にあるものだけではなさそうです。この国の未来についても人間は正確に知ることはできない。人生における一瞬さきの未来すら見えないわけです。できるだけ洞察力をもって「想像」できるようになれたらいいなと常々思っています。しかし残念ながら、科学は望遠鏡のようなものであって、認識の地平より彼方は幻視者でもなければ見ることはできません。

 優れた科学者は、世界の認識について優れた宗教者と同様に謙虚であると思います。

投稿: Rough Tone | 2005.08.30 02:10

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