2005.07.01

「きけわだつみのこえ」 その2

その2

 さて、前回のエントリは一体なんだったのかという疑問もおありだろうと思う。じつは、俺にとって、読もうと思った本をいつどこで読むかということは結構重要であったりする。

 高校の修学旅行のさなか、列車の中で友人と騒ぐのにようやく疲れたころに読んだ、ランボー「地獄の季節」。志望大学を決定するべく迷っているさなかに読んだ奥浩平「青春の墓標」や高野悦子「二十歳の原点」など学生運動活動家たちの手記。80年代の学生にはもはや政治の風はまったく吹いていなかったんだけれど、少なくとも俺は進路についての打算からの学問ではなく、見者となって世界を見わたせるような学問をやりたいと思っていた。なにしろ若い頃は時間は無限にあるように考えられ、なんでも学びことができ、なんでもできそうな気がしていた。時間が無限にあるわけじゃないことは、大滝詠一の歌ではないが、年齢を重ねなければわからない。次第に時間が惜しくなってきている今日この頃である。

 チェ・ゲバラではないが、バイクという名の、何処へでも(望みさえすれば地獄にさえも)行ける相棒を得た学生時代の俺にとって、あのちょっとした冒険旅行にさえ、自分がいまここで確かに生きているのだということがおどろくほど実感できた。まして戦車や戦闘機に乗り、戦火に散っっていった、当時の俺と同じくらいの年齢の若い学徒たちが、戦場という極限の場所で、自らの生と死にどう向かい合ったのか想像するにも余りあった。旅先でこれらの手記を読んで、旅愁もあってひとり涙したのを覚えている。前回も書いたように、当時携帯した岩波文庫版のそれは、旅先でなくしてしまったのだが・・・。
 ゆえに、俺は自分の学生時代というバックグラウンドなしに、この手記を思い出すことはできないのだ。

 ごめん、次回こそは、本題に入ろう

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2005.06.29

「きけわだつみのこえ」 その1

その1
 → 本題とまったく関係なさそうな予告編
      俺の「モーターサイクルダイアリー」

 ここに書くのは、当時の日記をもとにした小説のようなもの。1980年代も末の頃だと思ってほしい。

 大学3年生の夏、なぜか突然信州に出かけてみようと思い立ち、バイト代をひっつかむと、ひとり愛車VT250Fで都市高速をつっぱしり、小倉の日明港にあったフェリー乗場から、神戸へと向かった。野沢菜を食いたいと思ったのだ 。たぶんツーリング系のバイク雑誌で信州のことがよく取り上げられていたことにも影響されていたのだろう。

 二等客室で一晩を過ごし、翌朝はやく、当時フェリーターミナル以外なんにもなかった六甲アイランドに着いた。思えば旅先の宿のことなどまったく考えていなかった。最悪、宿がとれなければ、夏だからどこかで野宿でも出来るだろうと適当に考えていた。

 途中、俺にとって聖地であった甲子園球場に寄ったり、京都でいくつか寺めぐりをしたり、これまた当時のバイク乗りの聖地であり、その年の8時間耐久レースが行われたばかりであった鈴鹿サーキットへ立ち寄ったりして、自由気ままな旅を続けた。関西での数日間の宿はビジネスホテルやユースホステルに飛び込んですごした。立ち寄った甲子園球場ではその日、当時浩宮と呼ばれていた現在の皇太子が高校野球の開会式に出席するとかで、警官が球場付近のいたるところにいたのを覚えている。怪しいバイク乗りのいでたちでは、球場に近づくこともできず、球場近くのコンビニでなにか飲みながら甲子園球場のほうを見やり、ひとり腹をたてたのを覚えている。

 父親の遺骨の納められている真宗大谷本廟のわきをかすめ、1号線を京都から名古屋方面へひた走った。当時は父親に線香をあげようなどとは、露とも考えていなかった。
 3日目の夕方には名古屋についた。暇つぶしに道中みつけたバッティングセンターに行って何セットかバットを振った。ところが、ながくバイクで走ってきたため、革のライディンググラブの下で手はふやけきっており、手のひらの皮がべろっと剥けてしまった。考えてみれば無謀である。

 おまけに、名古屋で当日の宿を探したが見つからず、とりあえず薬局に寄り、手に応急処置。ついでにユンケルかなにかを買って飲み、徹夜を覚悟した。夜に走り回っても危険なだけなので、一宮市あたりの街道筋にあった、24時間営業のゲームセンターで朝までなんとか過ごそうとした。

 ところが、深夜、ゲームセンター前でバイクにまたがったまま休憩していると、いわゆる「ヤンキー」とよばれる少年たちにからまれることとなり、ひと悶着あった。15、16歳くらいの少年ふたり組みが、しきりにバイクを貸してくれとからんでくる。たまりかねてひとりの少年の胸倉をつかむと、もうひとりが捨て台詞をのこして駐車場に走り、やくざだと自称する中年男がなにか叫びながら走ってきた。どうやら少年たちの父親のようだった。酒かくすりにでもに酔っているのか、顔がまっかである。「ヤクザをなめるな」などと叫んでいる。

 こちらはなんとしてもバイクを奪われるわけにはいかないので、蹴飛ばすように振り切ってアクセルを開け、走り出した。俺が胸倉をつかんだほうの少年は、俺のバイクに蹴りを入れてきた。バイクはぐらついたが、転びはしなかった。やつらをぶちのめしたい気分だったが、とりあえずその場をあとにした。痛む手で胸倉を掴んだためか、グラブの中の手がじんじん痛む。

 すると彼らは、白いクルマに乗り込み、タイヤをきしませてゲームセンターの駐車場を出て、こちらを追いかけてくるではないか。いくつかの辻を曲がり、なんとか振り切ったが、自分がどこにいるのか皆目見当がつかなくなっていた。
 真っ暗な道路に一軒のコンビニをみつけて飲み物を買い休んだ。とりあえずコンビニ前でバイクにまたがったままもう一度一眠りすることにした。しかしどうにも眠れない。そうこうするうちに夜が明け初めたので、もう一度バイクを走らせることにした。

 明るくなったので、バイクを降りて、昨夜蹴られた個所を見る。VTにつけていたモリワキフォーサイトマフラーの、アルミの銘板のところに傷がつき、曲がっている。怒りが込み上げてきた。あんなところで夜明かしをしようとしたのは俺であるから、自業自得かもしれないが、当時はこれまたそんなこと露とも思わず、やはり昨日のやつを見つけたらぶちのめしたいという気分だけに支配されていた。

 川沿いを走っていると、ちょうど朝日を逆光にして黒い大きな影がみえた。城?。意表をつく建造物が視界に飛び込んできて驚き、この城はいったいなんなんだとあたりを見回す。やがて案内板のようなものが見つかった。なんとそれは、唯一の個人所有の城として、俺も当時名前だけは知っていた犬山城だった。

 日も高くなり、信州方面に行こうと、犬山城をあとにしてわけもわからずバイクを走らせる。

 そもそも地図も持たずにきた旅である。国道をずっと走っていけばなんとかなるだろうと、岐阜方面をめざす。しばらく走ると、道路の案内板からすでに岐阜市内にいるらしいことだけはわかった。当時の岐阜市内は、名古屋と比べるとおそろしく田舎に見えた。田んぼのまん中に岐阜警察署が見えた。はらわたが煮えくりかえっていたので、ゲームセンターの名前や昨日の奴らのクルマの車種やナンバーを記憶してはいた。昨夜の連中に報復するために被害届でも出してやろうかとも思ったが、警察がとりあってくれるとも思えず、やめておくことにした。

 岐阜市内で食事をとり、駅の裏手周辺の歓楽街を、好奇心からうろうろ。まったく、こんなところをうろつくから変な奴らにからまれるわけだが、当時は怖いもの知らずだったんだから致し方ない。

 そうこうしているうちに、恐ろしく眠くなってきた。昨夜のこともあり、徹夜で体調がよくないのでその日の信州入りはやめておこうと決めた。夕方まで郊外の本屋などに立ち寄ってぶらぶらして過ごし、公園で手のひらのバンソウコウを取り替えた。持参したカメラで、皮のむけた手のひらの写真を撮った。

 この日の宿は一宮市のビジネスホテルに確保した。夕方、岐阜から一宮に戻る最中、昨夜の一件があったゲームセンターが見えた。また怒りがわいてきたが、振りはらって宿へと向かった。
 泊まったのは、家族経営のこじんまりとした宿だった。チェックインすると、中学生くらいの女の子が入ってきた。宿の経営者の娘らしい。
 夕食と朝食が出るはずだったが、フェリーの中や旅先の宿で読んでいた岩波文庫版の「きけわだつみのこえ」を読もうとして横になった。ところがどっと疲れが出てしまい、布団も敷かずにそのまま寝入ってしまった。おかげて夕食を食べそこなったうえ、あっという間に翌日の朝がきてしまった。

 宿をチェックアウト。この時点で俺にとって信州はもうどうでもよくなっていた。いろいろあったし、長旅に嫌気がさしてもう帰る気でいた。行きとは反対のコースで神戸に向かう。帰り道は一気である。もう一度鈴鹿サーキットに立ち寄り、バイク仲間へみやげものを買ったこと以外、一切寄り道なしでぶっ飛ばす。

 フェリーターミナルからトラック甲板の隅にバイクを載せ、売店でビールを買って二等客室へ向かう。なにか退屈な気がして、荷物を調べると、あの戦没学生の手記を一宮の宿に置いてきてしまったことに気づいた。

 旅から帰ってきてからもう一度買った一冊が、今も手元にある。じつは、この本のなかのいくつかの心に残る個所は、この旅の中でみつけたものだ。旅愁から、宿で泣きながら読んだ個所もある。だから俺は、この本を語るために、このような長大なまえがきを書かねばならなかったのだ。ごめんね。

本題は次回のエントリにて・・・

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2004.12.21

抗議して生き残れ

 政府が12月14日に発表した「有事の際の国民保護指針」は、生物・化学兵器による攻撃や核兵器による攻撃を受けたときには「風下方向を避け、皮膚の露出を抑えるための手袋、帽子、ゴーグル、雨ガッパなどを着用する」などの留意点を記している。
「有事の際の国民保護指針」は首相官邸のページよりPDFファイルで入手できる。
(それにしてもなぜPDFのみなのか)

 核戦争になっても生き残れる人がどれほどいるというのだろう。自分たちだけは生き残れると信じているから、国家の指導者は手段としての戦争を容認するのだろう。

 大学時代、先輩に譲り受けた本に「核攻撃に生き残れるか 抗議して生き残れ PROTEST AND SURVIVE」(E.P.トンプソン他著 山下史他訳)がある。この本のタイトルは、英国中央情報局が作成した核攻撃に備えたマニュアル「防護して生き残れ PROTECT AND SURVIVE」のパロディになっている。面白いのは、この本は両開きになっていて、後ろからめくればこちらを読むことができる趣向であることだ。

two_tribes このパンフレットの題名は知らなくとも、80年代の洋楽が好きな人で、Frankie Goes To Holywoodの"Two Tribes"を聴いたことがある人なら、これがどういうものかわかるだろう。この曲の冒頭に出てくるのはイギリス政府の核攻撃警報である。さらに途中に出てくるフォールアウトに関するナレーションはこのパンフの「フォールアウト警報」についての説明の朗読なのだ。ちなみにフォールアウトというのは、放射性降下物のことで、いわゆる死の灰だ。
 核攻撃に生き残る? 広島や長崎の原爆でさえあれほどの被害を出したというのに、冷戦のなかはるかに進化した核兵器による攻撃は、そんなに生易しいものではない。やはり戦勝国は核兵器による被害の悲惨さを本当には意味で知らないなと思ったのを覚えている。

「核攻撃があったとき」のことを想像して備えることより、「核兵器のない世界」をつくることの必要を訴えたものだ。冷戦が終結し、全面核戦争の危機は当面は遠のいたかもしれない。しかし、大国のエゴを原因とする各地の紛争はいまだ絶えず、核兵器は明らかに拡散の傾向にある。この本はもう20年以上も前に出版されたもの。しかし我々はこの言葉が今もなお意味を持つ世界に生きている。

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2004.02.21

文学の復権

 先ごろの、芥川賞を19歳と20歳の二人が受賞したっていうニュースは、文学というか読書の復権って感じでなんだか意味もなくうれしかったんだけれども、その後のマスコミの騒ぎ方には少々うんざりだ。
 スポーツ紙がトップページで綿矢りさをアイドル扱い。芸能界のスカウトが狙ってるだのどうのこうのと伝えている。金原ひとみの立場はどうなるっつうの。

 こないだ、生徒(中学生)に芥川賞の話を振ってみたら、さすがに金原ひとみ「蛇にピアス」は中学生には読まれていないようだが、綿矢りさ「蹴りたい背中」のほうは読んでる女の子がけっこういた。
 それにしてもあの二人キャラクターが対照的なところが面白いねぇ。小説でも映画でも話題作に飛びつくってのは俺は生来アマノジャクなので嫌いなんだけど、ほとぼりが冷めたら読んでみるってことはよくある。今度こっそり買ってこよう。
(平野啓一郎の「日蝕」のときもそうだった)
 大衆文学と純文学の垣根がどういうものかは知らないが、売れ筋を狙うことなく書きたいものを書きたいように書けるのが純文学なら、純文学のベストセラーを出すなんてそれはそれは幸せなことだ。二人に乾杯。

 私小説以来の伝統なのか、わが国にはおよそ批判を許さないモノローグばかりの小説っていうものがある。小説ならまだいいのだが、最近じゃ個人のWebサイトだったり、このようなblogだったりするわけだが、こういうのはなんだか感想を述べることすら憚られて、読んだ後どうすればいいのって気になってしまう。作者が書くことに満足を覚えるのか、読まれることに満足を覚えるのかということの違いは大きい。

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