2006.06.20

「四日間の奇蹟」 ~角島へ~

 月曜日に山口県下関市(旧豊北町)の角島に行ってきた。どうせ行くならなら女性の友人でも誘えば楽しかろうが、今回はそういう根回しはなんにもできなかった。そもそも、平日の休日にめずらしく早起きしてしまい、ヒマだから角島にでも出かけようと、まったく唐突に思いついたのだから致し方ない。ひとり気楽に出かけるしかなかった。ゴンチチの"Strings with Gontiti"とボサ・ノヴァのオムニバス。2枚のMDを聴きながら、よく晴れた海辺のR191を流した。窓から差し込む日差しは、時折肌に痛みさえ感じるほどだったけれど、それもなんだか心地よかった。

Bridge

レクサスGS450hのCMでもおなじみの角島大橋
(映像の終わりごろに登場)。

Bridge2

 美しい曲線を描く橋をわたり角島にはいる。エメラルドグリーンの海はまるで南海の楽園を思わせ、ここが山口県であることを忘れてしまいそうだ。

Sea

 じつはこれまでにも2回ここへ来ている。はじめて角島を訪れたのは3年ほど前で、2度目はつい先月だ。クルマ好きな友人たちとつるんでのツーリングで、海の幸を食しようと久しぶりにこの島を訪れたのだが、そのとき行った仲間に、この島でロケが行われた「四日間の奇蹟」という映画について聞かされ、島に残る教会のセットなどを見てまわった。
 角島から帰るなり、DVDを借りてきてこの映画を見てみた。唐突にもういちど角島に行ってみたくなった原因はこれ。

Toudai

Cotage

Chapel

 映画に登場した福祉施設の宿舎は、じつは島のキャンプ場のコテージ群で、教会のセットは、キャンプ場利用者用のトイレに改装されていた。このセットは映画の撮影終了後も3年間保存されることになっているらしい。映画が公開されてからおよそ1年たっているが、島の観光客向けのおみやげを売るお店には、今もなお映画の宣伝ポスターが張ってあるところがいくつもある。期間限定ではあるものの、いわば新しい観光名所ともなっている。この日は月曜日だったので、訪れる観光客も少なく、角島大橋もロケ地周辺も灯台公園もなんだか閑散とした印象だった。映画は冬の角島でロケされたが、今は初夏。映画に描かれなかった角島の四季もまた見てみたいものだと思った。午後5時くらいまでのんびり過ごしたが、まもなく夏至を迎えるころで、日は長く、海に沈む夕日を見られなかったのは少々心残りだったが。

 俺は日本の映画はあまり見ないほうなのだが、佐々部監督の映画はひと月ほど前にNHK BS2で放送された「チルソクの夏」を見たばかりだったので、ちょっと興味を引かれていた。「チルソクの夏」は1970年代を背景に、韓国人男子高校生と日本の女子高校生の恋愛を扱った映画で、こちらも下関が舞台だった。かつて韓国は近くても遠い国だったが、当時から下関はどこよりも韓国に近かったのだ。劇中にも、下関を出航する関釜フェリー登場していた。聞けば佐々部監督は下関の出身だという。

 じつは「四日間の奇蹟」について、ベストセラーになったという原作も含め、俺はまったく知らなかった。DVDに特典映像として収録されていた映画の予告のテレビスポットで見た、主人公が手を血まみれにして叫んでいる映像や、平原綾香の歌う主題歌には微かに覚えがあったけれども。
 全編を通じて、ショパンやベートーヴェン、ドビュッシーのピアノ曲をはじめ、心を揺さぶる美しい音楽が流れる。そして主人公を演じた吉岡秀隆をはじめ、ヒロイン役の石田ゆり子も、西田敏行や 中越典子も、愛すべき魅力ある人物を好演している。この映画に出てくるのは本当に心優しい人ばかりで、そこらへんが俺のようなヒネクレ者には何となく納得のいかないところであるし、超常現象が出てくる映画はそもそも好きではない。 にもかかわらず、この映画のことが印象に残るのは、ヒロイン石田ゆり子の美しさと、もうひとりのヒロインの少女を演じている尾高杏奈の演技があまりに素晴らしかったからに他ならない。俺は奇蹟を信じることはないけれど、奇蹟を信じたい人の気持ちは理解しようと思う。人が心から癒されるためには、せめて虚構の世界の奇蹟を必要とするのだろうか。先月初めて見たときにはなんとも思わなかった教会のセットも、映画を見てから再び目にすると、やはり何かしら感慨を覚える。

 俺が無神論者だいうことは、このブログで何度か書いてきたことである。俺が6歳のとき父は白血病で死んだ。神や仏の違いもわからぬままに、父の病気が治ることを祈ったものだった。そんな幼い願いなど、神には結局届かなかったし、父は決して生き返ることはなかった。以来、俺はいかなる神も信じたことはない。
 父の臨終のときのことを、今でもたまに思い出すことがある。父の病室に親類があつまり、末期が近いときに、俺と幼い弟はなぜか病室から連れ出され、アイスクリームを与えられた。俺は父がもうすぐいなくなるということを本能的に感じ取っていた。そして、俺がアイスクリームを食べているまさにそのとき、父は逝った。

 思春期になると、俺は身の回りにあるちょっとした神秘主義にも噛み付き、攻撃し、悪態をついた。正直に告白すれば、天罰を下せるものなら下してみろと、誰もいない神社の境内でわざわざ立ち小便をしたこともある。
 そして神だけでなく、神や仏を信じる人々も許せなかった。星占いなんぞにうつつを抜かすクラスの女の子たちをさんざん馬鹿にしたし、幽霊を信じる友人を罵倒した。法事に来る坊さんの説法がはじめるとさっさと退室した。当時の俺はまったくもって嫌な奴である。

 今はさすがに歳をとったのか、人間も丸くなり、信仰を持つ人のことを少しは理解しようと考えているが、俺にとっての神は未だこの世界のどこにもいない。

 余談だが、母によると、俳優の平田満は父に似ているんだそうな。この映画にも出演しており、脳科学研究所の所長の役をやっている。俺の記憶の中にある父の面影は、別に平田満とダブったりはしないのだが、そう言われてみると、実家にある父の遺影もなんとなく平田満と似ているような気がしてくる。母はどのような気持ちで映画やテレビに登場する平田満を見ているのだろうか。

Car

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2005.09.16

久しぶりに、タイガースについて書く

 久しぶりに阪神タイガースのことを書こう。今年は2年ぶりにまた優勝してもいいのかな?・・・と、長年のファンとしては、あくまでも控えめにそう思っている今日このごろだ。

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 最近このブログでは、このひいきの球団のことについて書くことがほとんどなくなってしまっていたのだが、とあるサイトで面白い分析をみつけたので、それについて思うところを書こうと思う。

「18年前の1985年に阪神タイガースは驚異的な快進撃で優勝し日本シリーズを制覇した。この年臨時教育審議会の第1次答申が出され、日航ジャンボ機が墜落して520人が死亡し、コロンビア火山の大噴火で25000人が死亡した。2003年阪神の優勝は動かしがたいが、イラク戦争にともなう有事法制・特措法によって日本が大きく戦争国家へと転換する年となった。阪神が優勝する年はよくないことが起こっているのだ。つまり大衆の不満と怨念が極限に達して噴出するときに、そのトラウマを吸収し爆発する形で阪神はブッチキリで優勝するのである。さらに地球の温暖化が気候変動を誘発し天変地異が起きる年に阪神は優勝している。時代の心情を最も激しくストレートに突きつけるのが関西人であり、阪神は革命の根拠地である関西地方を象徴する時代の変革期を予告する球団なのである。」

名古屋市立大で地域経済論を教えておられる荒木國臣先生のサイト
「荒木 國臣のページ」より。

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 このサイトは、興味深い観点から映画や芸術の批評がなされているので、俺自身幾度となく訪れていたサイトだ。しかし今回この記事を発見したのは、さわやか革命さんの「ひねくれ者と呼んでくれ」というブログを読んでいたところ、このサイトのまったく別の箇所の記事へのリンクが張ってあった記事があり、リンク先を参照しにいったことに始まる。しかし阪神ファンの性で、リンク先の記事とはまったく別の箇所にある「阪神タイガース」という言葉に反応してしまったわけだ。まったくもってトホホである・・・。

 この記事は、読めばわかるように、2年前の2003年、阪神が18年ぶりのセントラル・リーグ優勝目前であったころに書かれたものだ。

「ところが今次阪神の優勝はいままでの循環型発展周期を攪乱する時代の混迷期にある点が従来の法則と大きく食い違っている。この平成大不況の出口は全く見えず、最悪の場合は循環そのものが否定される恐慌期に瀕しているという説もある。不況の次には過剰生産が廃棄されてふたたび好況期が来るという図式が崩壊しているのではないかという深刻な危機にあるからだ。ということは、いままで1度の優勝で力を使い果たして次の年は最下位に転落してきた阪神球団という図式も崩壊しつつあると云うことだ。結論的には阪神球団の優勝は単年度ではなく、しばらく続くかAクラスという状態に変化することが、かなりの確率で予測される。これは阪神フアンにとっては歓喜の極大化であるが、日本全体にとっては致命的なプロ野球の存続に係わる事態だということになる。」

 おもしろい分析だ。今年もいろいろ事故による大惨事や内外での天変地異もあった。「阪神が優勝する年はよくないことが起こっている」というのは、まったくのまちがいでもなさそうだ。また球界の現在の状況などは、不思議なくらい予測があたっていて、一般大衆に対してもなんだか説得力がありそうにさえ思える。

「阪神が優勝する年はよくないことが起こっている」なんてことをこのブログで書くと、まるでエセ科学か非合理主義に転落したような気がして、多少後ろめたい気もしているのだが、いちお唯物的あるいは科学的批判精神をかなぐり捨てたつもりはないので念のため・・・。

 このエッセイを書かれた荒木先生は、2003年9月17日の朝日新聞夕刊に掲載された、阪神タイガースという球団をニーチェ的に分析した記事を批評して、以下のように書いておられる。俺自身はその記事を読んでいないので、批評対象としているそのもの記事についてはよくわからないが。

「ニーチェの積極型ニヒリズムはファッシズムの思想的根拠を提供しナチズムの悪夢を招いた。阪神もファッシズムを準備する危険性があるということになるぞ。実際の阪神は反権力であり民衆の権化だから、やはり宮原氏の阪神=ニーチェ論は間違いなのだ。」

 ううむ。阪神ファンとして、またできるなら常に反権威の立場に立っていたい者として、この反論はとても心強いが、一抹の不安もある。九州から幾度となく馳せ参じた甲子園球場で感涙に咽び、あるいは2年前の福岡ドーム(当時)で負けヤケクソな気分になって「六甲おろし」を歌っていたときの、俺自身の心理状態について思い返すと、疑いのないものと確信していた俺自身の思想的立脚点すら見失ってしまいそうな、そんな不安に駆られてしまう。

 この度の選挙の結果は、この国にファシズムの到来を予感させるに十分だった。自分が阪神タイガースファンであることを自覚している身としては、ここではたと考え込んでしまう。
 以前書いたこんな記事に、 こちらからトラックバックしたpfaelzerweinさんという方から「「試合を応援するときの高揚」と「苦痛から解放されたよろこび」に共通点が無いだろうかと思い当たりました。」というコメントをいただいたことを思い出し慄然とした。

kosien

 はたして俺にタイガースを熱狂的に応援させるのは、小泉自民党に喜んで投票するある種の人々と同様の刹那的な動機なのだろうか、それとも、へそまがり的で反権力な志向のなせるわざか。自分自身は後者であると信じていたいのだが、ひょっとすると俺のなかにも、なにやら不気味なニヒリズムが蠢いているのだろうか。

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2005.08.05

「インテリジェント・デザイン」を唱える人々

米大統領、進化論に異議 「別の考えも教えよ」

【ワシントン3日共同】

 ブッシュ米大統領が、進化論に異を唱えるキリスト教右派の主張に同意し、公立学校の授業で進化論以外の考えも示すべきだと発言、波紋を広げている。
 大統領は1日に行われたテキサス州の地元紙とのインタビューで、聖書を厳格に解釈するキリスト教右派が熱心に説いている「インテリジェント・デザイン(ID)」に関する見解を聞かれた。
 人間の複雑な細胞の構造は進化論だけでは説明できず、「高度な理知」の手が入ることにより初めて完成するというのがIDの骨格。一部の学者は支持しているが、「科学の衣をまとった信仰だ」との批判が大勢だ。

(共同通信) - 8月4日9時29分更新

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 アメリカでブッシュ大統領の強力な支持基盤でもあるキリスト教原理主義者(根本主義者)たちは進化論をいまも頑なに否定していることで知られている。いまになってエセ科学を学校で教えろと言うとは、やっぱりあのひともその支持者同様、頑固なキリスト教原理主義者なんだろうねぇ。

 「インテリジェント・デザイン」を唱える人々の主張は、キリスト教原理主義者のスタンスとはやや異なっていて、進化論は認めてはいるものの、進化にいたる『最初の一撃』からその後の進化の過程まで、なんらかの意図をもった知性が手を下した」というような主張をしている。彼らの言うところの「なんらかの意図をもった知性」ってのは言うまでもなく「神」のことだが、そうはっきりと言わないところがエセ科学のエセ科学たる所以だろう。

 もっとも、奴(ブッシュ)だけ見てれば、ヒトが猿から進化したというのが信じられないってのも、少しは理解できるかもしれないね。現に奴はちっとも進化しちゃいないようだ。

ずいぶん昔からあるサイトなのだが、あらためてご紹介しよう。
George W. Bush or Chimpanzee

 また「科学」と「エセ科学」の違いについては、この本を読まれることをお勧めしたい。
カール=セーガン「人はなぜエセ科学に騙されるのか」
上下巻 新潮文庫
 (リンクは上巻)

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2005.07.12

宗教は阿片

 世にはさまざまな「神さま」がいらっしゃるようだが、残念ながら俺は宗教をまったく信じない人間であって、無神論者であると自称することは、むしろ誇らしいと思ってきた。これまでもこのブログで「神は不遜だ」と書きなぐったり、「神は悪である」と言った19世紀の詩人を引用してきたた。

 何度か書いたと思うのだが、「神が人間を創造したのではなく、人間が神を創り出した」という悪魔的で魅力的な考えがある。そして神は神の姿のまま我々の前に現れるとはかぎらない。時に熱烈な「愛国心」として、あるいは揺るがぬ「正義」として垂迹し、我々の前にあらわれる。
 また、神は非合理主義のばけものでもある。人間というものは、理解することのできない不思議なものを非常に恐れるから、その利用価値が失われぬかぎり「神」は繰り返し生産され、消費され、利用されつづけることだろう。
いつの時代も、現在の宗教をめぐる対立の根幹は、神の存在を信じる人々の集団が、互いの神を認めず、自分たちの神の名のもとに争っていることだ。それだけでも神の非存在の根拠となりはしないだろうか。

 マルクスは「宗教は阿片だ」と言った。俺もおよそそのように考えているが、無論旧ソ連のように宗教を抑圧すればいいなどとは思っていない。
 残念なことに、地球上の大部分の人々にとって、生きていくということは、そのまま不平等や貧困に苦しむことを意味している。阿片やモルヒネは末期がん患者の痛み止めに古くから用いられてきたが、それ自体では決して病状の回復につながることはない。しかも、ひどい依存性や常習性がある。
 しかし、神を信じるということが、がん患者を地獄のような痛みと苦しみから、ひとときでも解放してくれるようなものであるならどうだろう・・・。

 「世界から差別や貧困がすべてなくなれば宗教は存在意義を失う」という考えを今も俺は支持している。これは平和について語るとき、あちこちのブログでとりあげられるジョン=レノンの「イマジン」のなかでも歌われていることである。理想社会がどこかにあるならば、おそらくそこに神の玉座というべきものはない。わざわざ神を倒さずとも、差別や貧困、憎悪などをこの世界から葬ることによって、神に退位を迫ることができはしないか。

我々の、特に我々の科学の歴史とは、全能の神から、その権限を戦いとってきた歴史なのである。

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2005.01.24

いつぞやありしか

 「いつか見たことがある」という経験、中学生のころや高校生のころは、俺にもよくあったな。デジャ・ヴュ(既視感)っていうやつだ。いままでに一度も見たこともないものを見ているのに、いつかどこかで見たことがあるように感じたり、誰かのしぐさを以前どこか見たような気がしたりすること。
 この種の「既視感」は、脳が疲れているときによくおこる偽りの記憶だといわれている。まあ、デジャ・ヴュが毎日のようにおこってたら、夢を語りゃ予言者になれそうだ(笑)。そうなったら新興宗教でも起こせるかな。
 問題は、そのなにかが起こらなければ以前経験したことを思い出せないことなんだよね。そころへんがやっぱり「偽りの記憶」なんだろう。
 そういえば、このごろデジャ・ヴュって全然経験しないな。実現してほしい夢も結構見てるのにさ。

 デジャ・ヴュで思い出すのは、高校のとき古文の勉強中に出会った徒然草の一節。

「また、如何なる折りぞ、ただ今、人の言ふことも、目に見ゆる物も、我が心の中に、かかる事のいつぞやありしかと覚えて、いつとは思いでねども、まさしくありし心地のするは、我ばかりかく思ふにや。」
----吉田兼好(兼好法師) 徒然草第七十一段「名を聞くより」 後半より引用----

(拙訳)
 「また、ふとした折りに、いま実際に人が言っていることとか、いま目の前にあることと、いま考えていることが、いつかあったような気がするが、それがいつあったこととも思い出せないのだが、本当にあったことのような気がするのは、私だけがこんなふうに思うのだろうか。」

 兼好法師は、中世の隠者文学に分類されているみたいだけど、全然隠者っぽくないね。矛盾したことも結構言ってるし、下世話で、なんでも興味をもつ面白いおやじ。酒席で興に乗り、足鼎を頭にかぶって抜けなくなった仁和寺の僧の話(第五十三段)とか、ねこまたの話(第八十九段)なんか、まるで小咄みたいだ。この人のおかげで古文が好きになれたから、感謝してる。

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2004.12.13

罪の意識

 長くつきあっているクルマがエンジン移植を行うことになった。ウォーターポンプが壊れ、水がまわらなくなってオーバーヒートしたのが原因。
 エンジンブロック交換はじつはこれで2度目。なにせ20年前のクルマ。若いころ無茶な運転をしていたうえ、長年にわたって通勤からサーキット走行まで一台でこなしてきたおかげで思いきり過走行である。

hiruzen

※この写真は何年か前の某クルマ好きの蒜山高原での集まり。
 あいにくの天気だったけど楽しかったね。


 今年はじめに修理した足回りの修理代50万円に加え、今回の出費はおよそ40万円。昨年の車検費用もいれるとけっこういいクルマが買えそうなんだけど、どうも替える気にならない。同僚曰く「ほとんど愛」である。

 とはいえ、およそ機械というものは使っていれば壊れるものだ。いつかはその日が来るだろう。

 なぜか俺のクルマは、浮気心を起こし新しいクルマを物色していると調子が悪くなるような気がする。ワックスなんてかけなくても、人間が毎日乗ってさえいればクルマは朽ち果てたりしないものだ。しかし最近のように、体調があまりよろしくないとクルマに乗る機会が減ってしまうので、エンジンはなんだか不調になるし、ボディの痛みも心なしか早い。ネットで唯物論者だと大声で叫んでいる俺が言うのもなんだが、なんだか不思議な気分にさせられるよ。

 でも、これはおそらく人間の心が生み出す奇妙な錯覚にすぎないだろう。新しいモノへ次々と乗り換え、古いモノたちを簡単に忘れ去ることへの罪の意識は、俺にも露ほどには残っているようだ。

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2004.12.06

無意識の反映

 今月から金曜日にかわって月曜が休み。体調不良もあり、昼ごろまで寝ていると、ひどくエロティックな夢を見た。俺の家で美しい女性がひどく酔っ払って意識不明になり、床に寝ている。俺とその女性以外、家には誰もいない。こぼれた酒を浴びたのか、衣服がぬれて体にはりついている。美しく心奪われるが、彼女はどうやら俺の恋人ではない。彼女に声をかけるが起きてくれない。彼女の濡れた服を脱がし、毛布をかける。俺はちょっとどきどきしている。俺は2階にある俺の部屋に上がり、彼女に着せるべきシャツを探すのだが、なぜか半袖のものか、薄手のものしか見つからない。どうやら季節は冬だ。そうこうするうちに彼女は目覚める。下着姿の彼女は彼女は気分が悪そうだ。ソファからころがり落ちる。どこか頭を打ったようだ。痛そうに起き上がる。心配する俺を疑惑の目で見る。俺は焦って目を覚ます。

 どういうわけか、この夢に出てくる俺の家は、建て替え前の古いわが家をモチーフにしているようだ。彼女が倒れていた部屋は明らかに以前の家の応接間のフロアだ。しかしその古い家にはそもそも2階というものはない。2階に俺の部屋を作ったのは現在の家になってからなのだ。そしてそもそも彼女は誰なのか。

 夢というのは、フロイトに言わせれば無意識の反映だそうだ。淫夢というほどではないにしろ、この夢はいったいなんなのだろう。俺は潜在的に女性の服を脱がせたいという欲求を強くもっているのか。
 夢判断に詳しい人の意見を聞いてみたいけど、たまにそういう人を見つけてみると、精神分析というよりどちらかというと夢占いのようで、失望してしまうことのほうが多い。

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2004.11.23

転落の危機

それは無神論者を自称している俺が神秘主義者に転落するかどうかの瀬戸際の危機。

 鳥居のようなものが幾重にも俺の前後左右をとりかこんでいる。鳥居によってその空間は結界のように作用しているらしく、その下をくぐろうとすると胸が苦しくなり動けなくなる。

「はは、俺ももういよいよか。人の臨終とばかりに、無神論者を僭称する俺様に懺悔を迫りにきたか、八百万の神のくそったれ! 美しいもの、人にとって大切なものを神の名の下に容赦なく奪い、多くの人の涙と血にまみれたあらゆる神を、俺は一切信じないぞ。一神教だろうが多神教だろうが、鏡の両面のようなもの。お前たちはみんなグルなんだ。」

 と、ここまで一気呵成に言ってわれながらちょっとカッコイイと思った。人びとの祈りに豊穣、平和、安定で答える神々など、その存在を信じるに足る根拠を示したことすらない。奇跡、秘蹟のたぐいはおよそ計画的詐欺。崇拝を、儀式を、生贄を求める神など、はっきりいって嘘であり、まったくの欺瞞。

 ここで俺は叫ぶ。神を信じる人には悪魔の言葉。しかし妙に俗っぽいどこかで聞いたことのある言葉。

「神は死んだんだよ!」

 神が存在すれば、それはこの宇宙の物質存在の創造者としての恩義というものがあるかもしれぬ。しかし神は同じ数の禍禍しい破壊をもたらしたのだからプラマイゼロなのだ。
 そういう意味じゃ「神なんてもともといなかった」と言うべきだったかなと、ちょっと後悔もした。でもそこまで余裕はなかった、それなりに動揺していた。降圧剤にうなされるちょっとカワイイ自称無神論者だったのである。

 さて、俺を取り囲んでいた重苦しい結界だが、それはもうあとかたもなく消えてしまった。目覚めたときにはスッキリとした気分だった。無神論者に育ったことを神に感謝しかけたくらいだ。


※追記

 最近、持病のほうの数値が数年ぶりによくないので、水曜日には久々に通院する予定。入院を宣告されないことを祈るばかり。
 以前のエントリで、入院したときに夢の中で神秘主義者に転落しそうだったと書いた。これはそのとき目覚めたあと病室で書きなぐった文章をもとにしているのだが、ランボーの詩篇にえらくインスパイアされている。俺は当時、遺言代わりにこの文章を知り合いにやたらメールしていたらしい。今となってもなおとっても恥ずかしい。

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2004.09.11

「まつりあげるな、とチクタクマンは言った」

 今年オリンピックが行われたギリシアは、美しい神話で知られる国であるが、興味深いのは、その文化の中でイオニア地方にいわゆる「哲学」(自然哲学)が生まれ、タレースやヘラクレイトス、デモクリトスらは、自然の神秘を神秘にとどめず、純粋に論理的思考によってついには宗教とたもとを分かったことである。

 彼ら自然哲学者は、この世(あるいは宇宙)がなぜできたのか、なにからできたのかについて考えた。

彼ら以前にはこんな感じの問いが繰り返された・・・

「それは神が作った」
「じゃあ、神は誰が?」
「畏れ多いことをいうな!」

彼ら自然哲学者は考える

「この世界の根源は、水だ。なぜなら、あらゆるものに含まれているからだ」
----タレース----

「この世のあらゆるものは流転していく、その変化の象徴は火だ」
----ヘラクレイトス----

「万物の根源は、それ以上分割することのできない等質不変の原子(アトム)だ」
----デモクリトス----

 彼らの結論は現代科学から見れば稚拙なものだが、この世の「謎」を謎で終わらせないように思索を続けたことこそ哲学の始まりとされる所以なのではないか。
 個人的には、デモクリトスの「原子論」なんてものは、電子顕微鏡などないその時代に、よくぞ思索のみでここまでたどり着いたものだと思う。

 宗教になくて科学や哲学にあるものというのは、「なぜ?」という問いだろう。無論、科学者も、科学理論も、信仰の対象になってしまってはおしまいだ(自戒せねば・・・)。
 タレースなどと同様に自然哲学者のひとりとされるピタゴラスは、「万物の根源」と考えた「数」を絶対化し、神として崇めた。またフランス革命政権も、「理性」の優位性を強調するあまり、それは批判は許さない信仰の対象になっていった。
 世の宗教というものは、はじめから宗教らしい宗教だったわけじゃないような気がする。神の前の万民平等を説くイエスやムハンマドの教えは、差別されあるいは虐げられていた人びとにとって、どれほど光となったことだろう。親鸞の悪人正機説は、善人になりたくともなれないことがわかっているふつうの人々に、どれだけ救いを与えたことだろう。

 開祖といわれる人びとは、イエスにしても釈尊にしても、彼らなりに世界と向き合い、人の世の真理を発見したと考えた、あるいは人びとを救う唯一の道だと考え、それを広めたかっただけだったのではないだろうか。

                ※                  ※

 今日、とある講習(お恥ずかしい)で自動車免許試験場に行った。休憩時間に廊下に出たところ、白いベールのようなものをかぶったイラン系かトルコ系と思しききれいな女性が、となりの教室からでてきてベンチに座り、コーランを開いていた。つい見惚れてしまったよ。

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2004.07.05

弁証法的に学ぶ

 せとともこさんが書かれていた「人はなぜ勉強するの?」という問いについて、すこし考えてみた。俺もやっぱり高校生のときは、文学や歴史なんかよりおのれの恋愛のほうがよっぽど大事だった。せとさんが書かれていらっしゃるとおり、中学高校の勉強が大学での専門学問の土壌をつくるということは、大学に入ってその学問の面白さを知ってからやっとわかることなんだよね。中高生にわかりやすく説明することはなかなか難しい。

 30代なかばとなり、限られた時間というものの大切さを思い知らされた今も、職場で10代の中高生といつも接しているから、知識や学問、そして思索によって、俺自身、いつまでも成長するはずだという幻想を抱いている。まあ気楽な独身生活ゆえかもしれないけど。

 思えば10代は、詩や歌にもうたわれる月並みな表現なのだが、人生の中で特に素敵な時期だろう。好きなことに耽溺しつつも、いろいろなことを学ぶことが許されるし、考えることもできる。本人が自覚的でなくとも、個人の考えというようなものは、この時期なんとなく創りあげてられていくものだ。

 本を読んで多くの先人の思想に触れる。それで「わが意を得たり」と興奮することもあるだろうし、「これはおかしい」と、自分なりに情緒的、あるいは論理的に批評しようと試みることもあるだろう。人間として生きていく上で、他人の意見に共鳴できることはとても嬉しいことだし、道理に合わないことや非合理的なことに疑問をもつのもまた当然のことだろう。
 もちろん読書を多くこなしたからといって、この時期の迷いや悩みがキレイさっぱり解消してくれるということなどあるわけがない。場合によってはむしろ悩みは思索によって深化あるいは増幅されるかもしれない。しかし、しばらく時間がたったらどうでもよくなるような相違点や対立というものがあることもまた確かなことだ。人生経験が豊富とはとてもいえない俺が言うのもなんだが、この時期に悩むことや迷うことは絶対に無駄ではないと思う。ものごとを学ぶにあたってのスタンスがあるとすれば、「弁証法的に学ぼう」と言っておこう。

 俺が大学生のときは、ヒマだったが金もまたなかった。部屋で何もしていないときなど、天井の木目を見ながら、自分の人生や社会についてあれこれと物思いに耽ることができた。当時は無限の空虚に感じられた時間だったが、もしかしたら人生の中でも唯一無二の悦楽だったのかもしれない。そしてあの日の思索や、友人たちとの議論が今の俺の人格の一部をつくっているのもまた確かだ。俺の友人に「大学生がヒマで思索に耽ることは一種の義務だ」といった奴がいるが、そんな日々がじつは尊いものだったことは、日々の暮らしに追われる日々の中で、俺も本当に実感する。いくら仕事がきつくとも、仕事から帰って、酒飲んで風呂に入ったらあとは寝るだけという生活は拒否したい。10代のときのようにはいかなくとも、どんなことでももう少し考えたいし、悩んでみたい。この世界を理解し、できることならそれを好ましいと思われる方向に変えていきたいと思う。
 世界中の様々な芸術や思想、科学を学び、豊かな知性と人間性を身に付けた人間。俺が人生の終わりまでにそこに到ることができなくったって、俺の教える生徒や学生たちには、時間があるうちに少しでも近づいてもらいたいと思っている。

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