2006.05.08

「ガウディへの旅」

 俺の部屋には数年前からテレビがない。自室のPCのビデオキャプチャボードとIBMの21型PCモニタをテレビ代わりにしてきた。まあ安物のソフトウウェアエンコードのものなので、PCへの負担も大きいうえに録画品質もよくなかったから、もっぱらテレビとしての役割しか果たしていなかった。もちろん我が家にHDDやDVDのビデオ録画機などというものはない。
 ところが、きのうたまたま立ち寄ったPCショップにて、安価なハードウウェアエンコードのビデオキャプチャボードを見つけたので買ってきてみた。これなら昔録りだめたVHSビデオのライブラリを、DVD化できると思ったからだ。

 夜中にせっせとPCに取り付けて、動作チェックをしてみる。チューナーは地上波用しかついていないが、目的がビデオテープのデジタルキャプチャなので、アンテナはつながず、ビデオデッキの出力から録画品質をチェック。
 昨晩はNHK衛星第2放送で「いちご白書」をやっていた。「日米の学生運動の様子もあまりかわらなかったのだなあ、しかし彼らはベトナム戦争に直面していたし、兵役の問題もあったのが日本の学生との違いだよなあ」などと考えながら、録画品質をチェック。テレビ視聴用に使ってきたPentiumIII 933MHzの旧型PCでも、一見したところあまりコマ落ちはないようなので、まあ及第点としよう。

 今日になって、試しに1989年に録画したあるドキュメンタリーをDVD化することにした。この1989年という年は天安門事件、冷戦の終結、ベルリンの壁崩壊と世界が激動した年であった。日本でも元号が昭和から平成にかわり、美空ひばりや手塚治虫が亡くなるなど、いろいろあった年だった。そのためか、NHKの時事系のドキュメンタリー番組を録画したものが数多く残っている。「天安門 ~ソールズベリーの中国~」「1989年ニュースハイライト」「チャウシェスク政権の崩壊 市民が撮った革命の7日間」。
 当時、俺は法学部の学生だったはずだが、なぜそんなものをたくさん録画していたのかいまや自分でもよくわからない。そえでも当時はなぜか記録しなければならぬという使命感に燃え、せっせと録画していたようだ。

 そのころ録ったテープの中で、この東海テレビ製作「ガウディへの旅」は、NHKの番組でなく、時事関係の番組ですらない、建築家アントニ・ガウディの生涯を追ったドキュメンタリーである。
 ナレーションをつとめる奥田瑛二によるランボーの朗読で、番組ははじまる。バルセロナの歴史と風土、よりよき資本家のあり方を目指した理想主義者グェルとの出会い。コロニアグェル、グエル邸、バトリョ邸、ミラ邸など、バルセロナ各地に残るガウディの建築を巡りながら、ガウディの生涯に迫っている。
 アントニ・ガウディが亡くなったころ、カタローニャは辛く厳しい冬の季節を迎える。人民戦線内閣を武力で打倒したフランコのファランヘ党一統独裁体制は、彼の亡くなる1975年まで続く。フランコの人民戦線への協力者や、政権批判者への弾圧は過酷なものであった。
 その後、スペインは民主化が進展し、1986年にはEC(現在のEU)に加盟も果たした。バルセロナでも、サグラダファミリアの建築が再開され、このドキュメンタリーが制作された3年後には、オリンピックが開かれた。

 このような地方局制作のドキュメンタリーをよくまあ録画していたものと思う。番組の間に挿入されているCMから、おそらく深夜の時間帯に放送されたものと思う。ネットで情報検索してみてもほとんど情報がなかったが、どうやら東海テレビ制作のドキュメンタリーで、平成元年度の日本民間放送連盟賞を受賞した作品らしいことだけはわかった。

 そんなわけで、古いビデオテープを漁っていると、アントニ・ガウディをテーマにしたサントリー・ローヤルのCMも出てきた。ガウディの建築を背景に、奇妙なクリーチャーがいろいろ出てくるなんとも不思議なCMである。

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このシリーズはほかにランボー編、ファーブル編というものもあり、マーク・ゴールデンバーグの音楽も非常に知的で文学的な雰囲気を醸し出していて、すごく好きだった。数年前、とあるブログの紹介からランボー編とともにこのガウディ編の動画を入手してはいたのだが、画質には満足できるものではなかったので、こちらもキャプチャしてみた。
 しばらくこちらに置いておきますので、よろしければどうぞ(ただしエンコードはMPEG1です)。もうすぐインターリンクとの契約が切れちゃうので、期間限定です。

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2005.12.01

九州国立博物館を探訪

 さて、11月に入って、週末の休みは講習会のためになくなり、かわって月曜日が休みとなった。ちょうど同僚講師から九州国立博物館の開館記念展「美の国日本」の入場券を頂いたので、休みを生かしてドライブがてら見に行ってきた。なんと期間内無休ということなので、すこしでも人が少ないときに行こうと、あえて週末をはずし11月13日の月曜日に行ってきたのだが、見事に目論見は外れた。バスツアーのお年寄りや修学旅行生がたくさんいて、めちゃくちゃ人が多いじゃん。

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 博物館の外観は、こんな感じ。巨大でモダンな建築だが、まわりは森なので全景を見渡すことはなかなかできない。とにかく京都や奈良の国立博物館とはまったく違う未来的な雰囲気だ。これって本当は森の中にあるより街の中のほうが映えるデザインなんじゃないかな。

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 内部を見た感想は、巨大な格納庫に無骨な博物館がすっぽり包まれているような異様な感じ。なかなか他にない特徴ある建築だとは思うんだけど、なんだか巨大な万博のパビリオンみたいだ。ふんだんに使われたヒノキ材の匂いが香る館内。

 およそ3時間くらいかけて、企画展と常設展すべての展示を見る。トイレや休憩スペースも各所に配置してあるし、展示そのものはすごく興味深いものだった。惜しむらくは、狩野永徳「唐獅子図屏風」が見られなかったこと。展示期間がなんと俺の行く前日までだったらしい。でも雪舟「四季山水図・冬」や「花下遊楽図屏風」なども見ることができてよかった。

 常設展のアジア関連の展示も非常に興味深く感銘を受けたので、企画展がないときも退屈することはないだろう。


 軽食スペースにも、ミュージアムショップにも、とにかく、博物館という空間にあんなに人がいるのをはじめて見たよ。でも、例のパビリオンのような建築のおかげで(笑)なんだか違和感はなかったね。

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2005.11.24

ジェームズ・アンソール展

 阪神のリーグ優勝の記事からおよそ2ヶ月、秋はなにかと忙しくなってきたため、このブログの更新はまったくできていなかった。
 小泉自民党は選挙で大勝するわ、郵政民営化法案は通過するわ、おまけに阪神はロッテに日本シリーズで4連敗するわで、ブログ更新の意欲をなくしたのではないかと思われていたみなさん、ご心配なく。まあある程度落ち込んだのは確かだけどね。

 じつは、個人的には、それなりに秋を楽しんできたつもりだった。これからの数回にわたって、、この秋に出かけていったところについて書いてみようと思う。

 まだ暑かった9月はじめ、北九州市立美術館に「ジェームズ・アンソール展」を見に行ってきた。

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「丘の上の双眼鏡」と呼ばれている建物は、磯崎新氏設計によるもの。左右の鏡筒にあたる部分がギャラリー。じつはここは年中行ってるようなものなんだが・・・。

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 ジェームズ・アンソール(1860-1949)はベルギーの画家で、仮面や骸骨、あるいはグロテスクなクリーチャーが出てくる作品で知られる。美術誌でみたこの「仮面と死神」には非常に惹かれるものがあり、一度は見たいと思っていた。「あまりにも個性的でありジャンルを特定できない」といわれるその画風は非常に興味深いものがある。彼はあの「北斎漫画」を模写した「シノワズリー」という作品を残しており、そのうちのいくらかを見ることができた。彼も世紀末の画家らしく、ジャポニズムの洗礼を受けたのだろうが、「シノワズリー」というタイトルからみると、アンソールは北斎を中国の画家だと思っていたようだね。

 この美術館の本館と新館「アネックス」とをつなぐ回廊の突き当たりに、独特の空間がある。ルネサンスとモダン建築の融合という感じ。個性的な休憩所だ。

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 美術館ががすいてるときなど、よく誰かがここで本を読んでいたりする。奥にある四角い大理石の塊のようなオブジェは、なんと自動販売機を隠すためのもの。ここの「6連椅子」の向かって右から3つめの椅子が俺のお気に入りで(笑)、空調も適度に効いているから、ここでコーヒーを買って、しばしの休息を楽しむのが幸せ。

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2005.08.28

「科学的思考」と「科学万能主義」

 tenjin95さんのブログ「つらつら日暮らし」から、さきに書いた「インテリジェント・デザインを信じる人々」というエントリに興味深いトラックバックをいただいた。tenjin95さんは仏教系の研究所に勤務する研究者だそうで、僧侶でもいらっしゃる方だという。非常に興味深く拝読したが、いくつか俺の思ったところを書かせていただくことにする。

>>必要なのは、世界の有り様を観ていく智慧と、智慧をたゆまずに発現していくための修行です。修行しなければ発現しないのか?といぶかる方がいるかもしれません。例えば“科学的思考”などを強硬に振りかざす方が、まさに不要と叫ぶでしょう。

 このブログで俺はまさに「科学的思考」の立場を何度も振りかざしてきたわけだが、俺がtenjin95さんとは異なっている点は、「科学的思考」と「科学万能主義」は大きく異なると考えているところである。後者の立場は、じつは科学的思考でもなんでもなくて、一種の狂信ともいえなくはない。「科学的思考」と「科学万能主義」について、俺の感じたことを少々コメントをさせていただこうかと思う。

>>最も合理的な生き方は、必要があったときに自分の思考法を変えることであり、拠り所としている特定の領域を疑い、破壊し再建する労苦を厭わないことです。

 本当にもっともなことだと思う。でも、これは科学の歴史にもあてはまる。科学の理論の歴史もまさに「諸行無常」の歴史なのだから。

 「科学的思考」とは、ある時点での観測された事実と、それから推測される事柄からものごとをできるだけ正確に知ろうとする手段であると思う。時代が変わり、新しい事実がわかれば、理論は破綻し、あたらしい理論に取って代わられる。科学は時代性をもった道具であって、絶対的な価値基準なんてものじゃない。

 仏教でいう「諸行無常」が、あらゆるものはやがてが壊れ、流転していくということに根ざした主張なら、tenjin95さんはおわかりになっていただけると思う。「物理法則」というのはなにも「神の裁きの手段」ではなく、「諸行無常」の真理とおなじように、「見える世界だけでなく、見えない世界までも、できるだけ正確に知ろう」というときに、一種のものさしとなるものであると、俺は考えている。

>>科学万能主義も宗教万能主義も要らない。むしろ万能なんて事があり得ない、事象の限界を見定めて、限界の中でどうするかを考えて生きていきたい拙僧でした。

 多くの科学者も、決して自分では行くことができない世界のことを考えたり、生きている間にはおそらく解明できないであろう多くの謎に取り組んでいる。俺も「事象の限界を見定めて、限界の中でどうするかを考えて生きていきたい」という考えには大いに賛成できる。

 そういう意味では、「科学は万能である」などという科学者がいたとしたら、その科学者は歴史の残る新発見ができるようなすぐれた科学者じゃないだろう。ガリレイやアインシュタインも当時の科学界に巣くう守旧派に攻撃された。彼らの立場は宗教改革者を否定し、旧い教義にしがみついたある種の宗教者たちと同じである。

 tenjin95さんに対して反論めいたことを書いてしまったが、先に述べたように、俺はこの記事だけでなく、tenjin95さんの文章をいろいろ興味深く拝読したのも事実だ。じつは科学と宗教の問題を考える上で、興味があるのは仏教の思想だ。俺の尊敬する科学者、故カール=セーガンは、晩年ダライ=ラマとながい対談をおこなった。また科学者でSF作家のアーサー・C・クラークも、未来社会には一神教はもはや支持を失い、仏教しか生き残っていないような社会のことを書いている。

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2005.08.16

終戦記念日に

 この国を悲劇へと導いた愚かな指導者への恩赦がはじまっている。東京裁判を全面否定し、60年前に終わった戦争を「仕方がなかった」あるいは「大義があった」として合理化しようとする立場だ。彼らの亡霊は、あきらかに息を吹き返しつつある。それを必要とする人々の手によって。

 一世紀も前に、フランスの作家ロマン・ロランは、その小説「ジャン・クリストフ」の中で、普仏戦争後のフランスに渦巻いていたドイツへの報復への怨念について次のように書いている。

「あらゆる国民の歴史のあらゆる時代になされたことのある類似の犯罪行為の実例をもち出すことによってドイツのばあいを弁護しようとはクリストフは考えなかった。言いわけをすることがかえって恥であるような、そんな言いわけを見つけ出そうとするにはクリストフの自尊心はあまりにも大きかった。人間性が成長するにつれて人間の犯罪はますます醜悪の観を呈する。なぜなら、それらの犯罪はますます多くの啓蒙的な光に照明されるのだから。-----
 -----このことを、クリストフは知っていた。しかし彼はまた、次のことも知っていた-----もしもフランスのほうが戦勝者だったとしたら、勝利者としてのフランスの処置はドイツがした以上に穏和なものでもあるまいということ、そして、犯罪的行為の因果の連鎖へまた一つ新しい輪がつけ加えられるだろうということを。こんなにして悲劇的な争いが果てしなくつづくことになり、ヨーロッパ文明の持つ最良のものがそのために滅びる危険がある。」
--------ロマン・ロラン「ジャン・クリストフ」片山敏彦・訳--------

 クリストフの時代から一世紀、クリストフの危惧は二度も現実のものとなった。第一次世界大戦とヴェルサイユ体制。イギリス、フランスの過酷な要求はドイツ国民を疲弊させ、ナチスの台頭を許した。二つの世界大戦と、それに伴う無数の犯罪行為は、彼の知るそれをはるかに凌ぐものとなってしまった。21世紀の現在なら「ヨーロッパ文明の持つ最良のものがそのために滅びる危険がある。」という箇所の、「ヨーロッパ」を「アジア」あるいは「世界」に置きかえることも可能だろうか。

 しかしヨーロッパは今、ようやく数世紀にわたる戦争の時代から解放されつつある。少なくとも独仏は、かつての数世紀にわたる憎悪を再びたぎらせるようなことはないかのようにさえ感じられる。
 翻ってこの日本を含む東アジアはアジアはどうであろうか、過去への反省をまともにおこなわないこの国では、「東アジア共同体」の夢を語ることさえ一部の勢力に嘲笑されかねない状況だ。

 そんなことを考えた俺の終戦記念日は、NHKのジョン=レノンの特集番組を見終えたところで短い休暇とともに終わった。明日から再び仕事に戻るので、もう寝なければならないのだが。

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2005.07.15

君死にたまふことなかれ

ねえ、ジョニー
あなたを 思うと 泣きたくなるわ
死なないで ジョニー
末っ子の あなたは
父さん 母さんに 愛されて
それは それは うらやましかった
でも 父さんは いわなかったわ
ひとを殺して、死ねだなんて
19歳まで 大切に
あなたを 育てた 母さんは
そんなこと けっして 教えなかったわ

ブルックリンの ふるい雑貨屋
あなたは その あとつぎ息子
おじいさんの名前を 受け継ぐ あなた
ぜったい 死なないで いてほしい
イラクが テロリストの手に 落ちたって
いえ落ちなくたって、どうでも いいわ
あなたより 大切なものは ほかにない

あなたは ぜったい 死なないで
あのひとは 戦いに 出て行かない
兵に 血を 流させて
イラクの砂漠で 死ねなんて
なぜ 戦いに いくひとを
あのひとは いつも胸張って 見おくるの
あのひとに やさしさが かけらでもあれば
何かを 感じられるでしょうに

ねえ ジョニー
砂漠なんかで 死なないで
戦闘の ニュースをきくと 父さんは
窓の外見て ためいきつくわ
そして かわいそうな 母さんも
なにかにつけて 泣いている
世界にひとりの あなたを失って
アメリカの 自由に何の 意味がある
母さんの額に 深いしわ

たったひとりで 泣いている
あなたの かわいい フェリシティ
あなたは 忘れて しまったの
半年も 一緒に いられなかった
いちずな 心を 思いやって
この世に あなたは たったひとり
いったい 誰が かわりになるの
ジョニー ぜったい 死なないで

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2005.06.24

ウルグ・ベク

 天体の法則をあきらかにしてきたコペルニクスやジョルダーノ=ブルーノやガリレオ、ケプラーについては、強く心引かれるものがある。主に欧州の科学史のなかで登場してきた人々だが、アリスタルコスやプトレマイオスの時代と、コペルニクスの時代の間には、もはや暗黒時代とはいわないまでも、キリスト教的中世という大きな谷間が横たわっている。しかし、古代ギリシアやヘレニズム、ローマ時代の自然科学の成果は、高度な文明を誇ったイスラム教徒が保存し、西欧に再摂取させたということは、あまり一般に知られていない。

 今回のエントリでは、昨日のエントリで触れたティムールの孫にあたる、ウルグ・ベク(Ulugh Beg ,1393~1449 位1447~1449)を中心に書いてみたい。
 彼は、ティムール帝国第4代のスルタンであるとともに、天文学、歴史学、文学、神学など、およそありとあらゆる方面で才能を発揮した中世イスラムを代表する天才でもある。

 ウルグ・ベクは、青く美しきティムールの都サマルカンドに、彼の名を冠した神学校(ウルグ・ベク・マドラサ)を創設し、帝国内外から優れた学者を招いた。ティムール帝国をわずか4代にして世界に冠たる文化国家に押し上げたのは、主として彼の業績であったといっていい。

 さらにサマルカンドには、ウルグ・ベクが建設した天文台があった。古代グプタ朝インドの数学者にして天文学者のアリヤバータ(Aryabhatta, 476~550)がすでに唱えていた地動説は、インドで生まれたゼロの観念などとともに、すでに中世イスラム社会には知られるところとなっていた。15世紀初頭、ここでウルグ・ベクはみずから「六分儀」という観測器を用いて天体を観測し、現代の天文学者が計算するそれとほとんど違わぬ精度で、地球が太陽の周囲を回る時間、つまり1年の長さを算出してみせたという。それはコペルニクスの「天球の回転について」が出版される一世紀も前のことだ。

 聞けば、ウルグ・ベク・マドラサの中庭には、科学史上名高い5人の天文学者の像が建てられているという。アレクサンドリアのプトレマイオス(生没年不詳、2世紀)、イタリアのガリレオ・ガリレイ、ポーランドのコペルニクス、ホラズムのビルーニー(973~1048頃)と、ウルグ・ベク自身。いつかそれらを目にしてみたいと思う。スルタン・ウルグ・ベクが現代に生きていたら、ニュートンやケプラー、アインシュタインなどの像をここに付け加えようとするかもしれない。

 彼の真理へのあくなき探究心は、保守的なイスラム聖職者を困惑させ、その憎悪を招いた。好きな学問に勤しむには、スルタンの地位はあまりにも重かった。このエピソードを知った高校時代、武門に生まれながら万葉の雅に思いをはせ、心打つ歌を詠んだ鎌倉幕府の第3代将軍、源実朝のことを思い出さずにはいられなかった。彼らに欠けている資質というものがあったとするなら、帝王としてのそれだろうか。

 彼らはやがて、ともに実の息子や甥による暗殺という悲劇的な最期を遂げることになる。

 英主を失ったティムール帝国は、やがてウズベク人によって征服され、ボハラ、ヒヴァ、コーカンドの3ハン国が成立する。そして19世紀になってそれらはロシア帝国に編入されることになる。旧ソ連時代はウズベク共和国と呼ばれていたウズベキスタンが独立するのは、1991年のソ連の解体後のことである。

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2005.04.06

「薔薇の名前」

nameofrose ジャン=ジャック=アノー監督「薔薇の名前」を昨日(4日深夜)NHK BSで久々に見た。構造小説的な趣のあるウンベルト=エーコの原作小説を、映画は14世紀の修道院を舞台にした興味深いミステリに仕上げている。十数年前の映画とはいえ、未見の方にネタバレになっては困るので、ここで物語の結末は書かないが、この映画は欧州諸国の合作であるだけに、ヨーロッパ中世の雰囲気をよく描けている。
 もちろん何度も見ているはずなんだけど、今回は第264代ローマ法王ヨハネ=パウロ2世が亡くなったばかりなので、いろんなことを考えながら改めてこの映画を見た。

 教会の腐敗、中世の教会の女性観、法王庁とフランチェスコ会の清貧をめぐる議論、フランチェスコ派とドミニコ派の教義の解釈の違いなども散りばめられ興味深い。また、修道会が修行の一環としておこなっていた文献の翻訳や写本も物語の重要な要素として描かれている。特にギリシア哲学の保存者としての修道会の立場と、それらと教会の教義との矛盾がこの物語の重要なカギとなっている。

 キャストでは、かつて異端審問官だったが、ある事件によってその座を追われたフランチェスコ派修道士、バスカヴィルのウィリアムを、ショーン=コネリーが陰影深く演じている。彼は、法王庁の使者との論争をおこなうべく滞在中であった北イタリアのドミニコ派修道院で、数々な奇怪な事件に遭遇する。彼とクリスチャン・スレーター演じる弟子のアドソは、結果的にこれらの事件を推理していくことになる。ウィリアムが当時最新のテクノロジーであったと思われる眼鏡(老眼鏡)をかけ、砂時計やアストロラーベほか当時最新のさまざまなテクノロジーをひそかに携帯しているあたりは、中世にも息づいていた科学的な見地を象徴しているようにも思える。そして明らかになっていくのは、一連の恐ろしい事件は悪魔の仕業などではなく、人間の仕業であるという事実。

 異端審問や異端者の火刑も描かれる。火刑は公開のもとに行われた。ヨハネス=ケプラーの母も魔女として裁かれたことは以前に書いたが、月は真っ赤な焼けた石であるといった天文学者ジョルダーノブルーノも、宗教改革のさきがけであったベーメンのフスも、異端として火刑に処せられた。
中世の異端審問や魔女裁判では、結論ははじめから出ていた。ゆえにあらゆる証拠が当事者にとって不利にはたらくよう誘導される。そして異端を擁護したものもまた異端とみなされるのだ。個人的には、昨今のリベラルなブログに対する陰湿な攻撃はこれを思わせるものがあると思うよ。

johannes_paulusii ヨハネ=パウロ2世が、進化論を認め、中世の異端審問のあやまりやガリレオ=ガリレイへの宗教裁判に対する謝罪をおこなったのは画期的であったとあらためて思う。カトリック数百年の歴史を背負っていた法王がここまで認めたことは評価すべきだろうね。一方で妊娠中絶や避妊、女性の聖職叙任などについての法王の立場を保守的と批判する向きもあるけど、これは教会にとって未来の課題なんだろう。
 「戦争は人間の仕業です。戦争は人間の生命の破壊です。」広島で平和のメッセージを発信した法王の姿は、無神論者である俺にとっても忘れ得ない。戦争もまた悪魔の仕業ではなく、人間の仕業である。

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2005.02.07

神聖なる恍惚~J.S.BACH讃~

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パッションは天幕を貫き
生暖かなエロスに触れる
イマジネーションは天を穿ち
僕を宇宙に放り出す

淫靡な妄想
極彩色の抽象画
万能のひととなる夢

宇宙を感じる快感が
僕の背筋を駆け抜ける
緩慢な死への麻酔薬

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いえ、あの、なんだ・・・。
久しぶりにバッハ聴いて興奮した。
「ソフィーの世界」読んだせいもあるかな、きっと。

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2005.02.05

忙中閑あり?

 センター試験は終わったが、私立大学の受験や中学生の高校受験などで、いまのところ仕事はまだまだ忙しい。忙しく仕事をこなすだけなのはどうも精神衛生上よくない。そこで、たかが知れている職場の空きコマではあるが、少しでも暇をみて読書をしてみようと思った。まあ何をするにも十分とはいえない空き時間(なにせ数十分)だが、仕事中でもあるので、仕事の資料調べも兼ねていると言い訳できるようなものを読もうと思う。

 この2週間で10年ほどまえ話題になったヨースタイン・ゴルデル「ソフィーの世界」を改めて読んだ。分厚い本だが読みやすく、先週月曜の空きコマから読み始めて、昨日やっと読了。読み直してみるとやはりすごく面白い。哲学入門であったり、メタ小説になってたりで、筒井康隆を思い出させる。これを参考にして数年来とりかかっていてなかば放棄している高校倫理のテキストを書きなおしてみたい気になってくる。とりあえず意欲はわくね。これまでだって学生に推薦してきたけど、自分で改めて読むと本当に面白かった。

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