2006.06.20

「四日間の奇蹟」 ~角島へ~

 月曜日に山口県下関市(旧豊北町)の角島に行ってきた。どうせ行くならなら女性の友人でも誘えば楽しかろうが、今回はそういう根回しはなんにもできなかった。そもそも、平日の休日にめずらしく早起きしてしまい、ヒマだから角島にでも出かけようと、まったく唐突に思いついたのだから致し方ない。ひとり気楽に出かけるしかなかった。ゴンチチの"Strings with Gontiti"とボサ・ノヴァのオムニバス。2枚のMDを聴きながら、よく晴れた海辺のR191を流した。窓から差し込む日差しは、時折肌に痛みさえ感じるほどだったけれど、それもなんだか心地よかった。

Bridge

レクサスGS450hのCMでもおなじみの角島大橋
(映像の終わりごろに登場)。

Bridge2

 美しい曲線を描く橋をわたり角島にはいる。エメラルドグリーンの海はまるで南海の楽園を思わせ、ここが山口県であることを忘れてしまいそうだ。

Sea

 じつはこれまでにも2回ここへ来ている。はじめて角島を訪れたのは3年ほど前で、2度目はつい先月だ。クルマ好きな友人たちとつるんでのツーリングで、海の幸を食しようと久しぶりにこの島を訪れたのだが、そのとき行った仲間に、この島でロケが行われた「四日間の奇蹟」という映画について聞かされ、島に残る教会のセットなどを見てまわった。
 角島から帰るなり、DVDを借りてきてこの映画を見てみた。唐突にもういちど角島に行ってみたくなった原因はこれ。

Toudai

Cotage

Chapel

 映画に登場した福祉施設の宿舎は、じつは島のキャンプ場のコテージ群で、教会のセットは、キャンプ場利用者用のトイレに改装されていた。このセットは映画の撮影終了後も3年間保存されることになっているらしい。映画が公開されてからおよそ1年たっているが、島の観光客向けのおみやげを売るお店には、今もなお映画の宣伝ポスターが張ってあるところがいくつもある。期間限定ではあるものの、いわば新しい観光名所ともなっている。この日は月曜日だったので、訪れる観光客も少なく、角島大橋もロケ地周辺も灯台公園もなんだか閑散とした印象だった。映画は冬の角島でロケされたが、今は初夏。映画に描かれなかった角島の四季もまた見てみたいものだと思った。午後5時くらいまでのんびり過ごしたが、まもなく夏至を迎えるころで、日は長く、海に沈む夕日を見られなかったのは少々心残りだったが。

 俺は日本の映画はあまり見ないほうなのだが、佐々部監督の映画はひと月ほど前にNHK BS2で放送された「チルソクの夏」を見たばかりだったので、ちょっと興味を引かれていた。「チルソクの夏」は1970年代を背景に、韓国人男子高校生と日本の女子高校生の恋愛を扱った映画で、こちらも下関が舞台だった。かつて韓国は近くても遠い国だったが、当時から下関はどこよりも韓国に近かったのだ。劇中にも、下関を出航する関釜フェリー登場していた。聞けば佐々部監督は下関の出身だという。

 じつは「四日間の奇蹟」について、ベストセラーになったという原作も含め、俺はまったく知らなかった。DVDに特典映像として収録されていた映画の予告のテレビスポットで見た、主人公が手を血まみれにして叫んでいる映像や、平原綾香の歌う主題歌には微かに覚えがあったけれども。
 全編を通じて、ショパンやベートーヴェン、ドビュッシーのピアノ曲をはじめ、心を揺さぶる美しい音楽が流れる。そして主人公を演じた吉岡秀隆をはじめ、ヒロイン役の石田ゆり子も、西田敏行や 中越典子も、愛すべき魅力ある人物を好演している。この映画に出てくるのは本当に心優しい人ばかりで、そこらへんが俺のようなヒネクレ者には何となく納得のいかないところであるし、超常現象が出てくる映画はそもそも好きではない。 にもかかわらず、この映画のことが印象に残るのは、ヒロイン石田ゆり子の美しさと、もうひとりのヒロインの少女を演じている尾高杏奈の演技があまりに素晴らしかったからに他ならない。俺は奇蹟を信じることはないけれど、奇蹟を信じたい人の気持ちは理解しようと思う。人が心から癒されるためには、せめて虚構の世界の奇蹟を必要とするのだろうか。先月初めて見たときにはなんとも思わなかった教会のセットも、映画を見てから再び目にすると、やはり何かしら感慨を覚える。

 俺が無神論者だいうことは、このブログで何度か書いてきたことである。俺が6歳のとき父は白血病で死んだ。神や仏の違いもわからぬままに、父の病気が治ることを祈ったものだった。そんな幼い願いなど、神には結局届かなかったし、父は決して生き返ることはなかった。以来、俺はいかなる神も信じたことはない。
 父の臨終のときのことを、今でもたまに思い出すことがある。父の病室に親類があつまり、末期が近いときに、俺と幼い弟はなぜか病室から連れ出され、アイスクリームを与えられた。俺は父がもうすぐいなくなるということを本能的に感じ取っていた。そして、俺がアイスクリームを食べているまさにそのとき、父は逝った。

 思春期になると、俺は身の回りにあるちょっとした神秘主義にも噛み付き、攻撃し、悪態をついた。正直に告白すれば、天罰を下せるものなら下してみろと、誰もいない神社の境内でわざわざ立ち小便をしたこともある。
 そして神だけでなく、神や仏を信じる人々も許せなかった。星占いなんぞにうつつを抜かすクラスの女の子たちをさんざん馬鹿にしたし、幽霊を信じる友人を罵倒した。法事に来る坊さんの説法がはじめるとさっさと退室した。当時の俺はまったくもって嫌な奴である。

 今はさすがに歳をとったのか、人間も丸くなり、信仰を持つ人のことを少しは理解しようと考えているが、俺にとっての神は未だこの世界のどこにもいない。

 余談だが、母によると、俳優の平田満は父に似ているんだそうな。この映画にも出演しており、脳科学研究所の所長の役をやっている。俺の記憶の中にある父の面影は、別に平田満とダブったりはしないのだが、そう言われてみると、実家にある父の遺影もなんとなく平田満と似ているような気がしてくる。母はどのような気持ちで映画やテレビに登場する平田満を見ているのだろうか。

Car

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2005.11.24

秋の山菜定食

 10月のおわりごろ、河内貯水池まで出かけてみた。紅葉はいまいちだったが、空気はひんやりとしてきていて、明らかに夏とは違う秋の風情。その日は、河内貯水池そばで古くから営業している、とある食事処で食事をとった。俺は十代のときからバイクでよくこの貯水池にに来たものだったが、記憶を辿ってみれば、その頃からすでに営業していた老舗のお店だ。年配のご夫婦が経営されていて、静かな雰囲気。

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 その日は秋の山菜定食をいただいた。どう、美味しそうでしょ。

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ジェームズ・アンソール展

 阪神のリーグ優勝の記事からおよそ2ヶ月、秋はなにかと忙しくなってきたため、このブログの更新はまったくできていなかった。
 小泉自民党は選挙で大勝するわ、郵政民営化法案は通過するわ、おまけに阪神はロッテに日本シリーズで4連敗するわで、ブログ更新の意欲をなくしたのではないかと思われていたみなさん、ご心配なく。まあある程度落ち込んだのは確かだけどね。

 じつは、個人的には、それなりに秋を楽しんできたつもりだった。これからの数回にわたって、、この秋に出かけていったところについて書いてみようと思う。

 まだ暑かった9月はじめ、北九州市立美術館に「ジェームズ・アンソール展」を見に行ってきた。

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「丘の上の双眼鏡」と呼ばれている建物は、磯崎新氏設計によるもの。左右の鏡筒にあたる部分がギャラリー。じつはここは年中行ってるようなものなんだが・・・。

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 ジェームズ・アンソール(1860-1949)はベルギーの画家で、仮面や骸骨、あるいはグロテスクなクリーチャーが出てくる作品で知られる。美術誌でみたこの「仮面と死神」には非常に惹かれるものがあり、一度は見たいと思っていた。「あまりにも個性的でありジャンルを特定できない」といわれるその画風は非常に興味深いものがある。彼はあの「北斎漫画」を模写した「シノワズリー」という作品を残しており、そのうちのいくらかを見ることができた。彼も世紀末の画家らしく、ジャポニズムの洗礼を受けたのだろうが、「シノワズリー」というタイトルからみると、アンソールは北斎を中国の画家だと思っていたようだね。

 この美術館の本館と新館「アネックス」とをつなぐ回廊の突き当たりに、独特の空間がある。ルネサンスとモダン建築の融合という感じ。個性的な休憩所だ。

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 美術館ががすいてるときなど、よく誰かがここで本を読んでいたりする。奥にある四角い大理石の塊のようなオブジェは、なんと自動販売機を隠すためのもの。ここの「6連椅子」の向かって右から3つめの椅子が俺のお気に入りで(笑)、空調も適度に効いているから、ここでコーヒーを買って、しばしの休息を楽しむのが幸せ。

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2005.07.01

「きけわだつみのこえ」 その2

その2

 さて、前回のエントリは一体なんだったのかという疑問もおありだろうと思う。じつは、俺にとって、読もうと思った本をいつどこで読むかということは結構重要であったりする。

 高校の修学旅行のさなか、列車の中で友人と騒ぐのにようやく疲れたころに読んだ、ランボー「地獄の季節」。志望大学を決定するべく迷っているさなかに読んだ奥浩平「青春の墓標」や高野悦子「二十歳の原点」など学生運動活動家たちの手記。80年代の学生にはもはや政治の風はまったく吹いていなかったんだけれど、少なくとも俺は進路についての打算からの学問ではなく、見者となって世界を見わたせるような学問をやりたいと思っていた。なにしろ若い頃は時間は無限にあるように考えられ、なんでも学びことができ、なんでもできそうな気がしていた。時間が無限にあるわけじゃないことは、大滝詠一の歌ではないが、年齢を重ねなければわからない。次第に時間が惜しくなってきている今日この頃である。

 チェ・ゲバラではないが、バイクという名の、何処へでも(望みさえすれば地獄にさえも)行ける相棒を得た学生時代の俺にとって、あのちょっとした冒険旅行にさえ、自分がいまここで確かに生きているのだということがおどろくほど実感できた。まして戦車や戦闘機に乗り、戦火に散っっていった、当時の俺と同じくらいの年齢の若い学徒たちが、戦場という極限の場所で、自らの生と死にどう向かい合ったのか想像するにも余りあった。旅先でこれらの手記を読んで、旅愁もあってひとり涙したのを覚えている。前回も書いたように、当時携帯した岩波文庫版のそれは、旅先でなくしてしまったのだが・・・。
 ゆえに、俺は自分の学生時代というバックグラウンドなしに、この手記を思い出すことはできないのだ。

 ごめん、次回こそは、本題に入ろう

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2005.06.29

「きけわだつみのこえ」 その1

その1
 → 本題とまったく関係なさそうな予告編
      俺の「モーターサイクルダイアリー」

 ここに書くのは、当時の日記をもとにした小説のようなもの。1980年代も末の頃だと思ってほしい。

 大学3年生の夏、なぜか突然信州に出かけてみようと思い立ち、バイト代をひっつかむと、ひとり愛車VT250Fで都市高速をつっぱしり、小倉の日明港にあったフェリー乗場から、神戸へと向かった。野沢菜を食いたいと思ったのだ 。たぶんツーリング系のバイク雑誌で信州のことがよく取り上げられていたことにも影響されていたのだろう。

 二等客室で一晩を過ごし、翌朝はやく、当時フェリーターミナル以外なんにもなかった六甲アイランドに着いた。思えば旅先の宿のことなどまったく考えていなかった。最悪、宿がとれなければ、夏だからどこかで野宿でも出来るだろうと適当に考えていた。

 途中、俺にとって聖地であった甲子園球場に寄ったり、京都でいくつか寺めぐりをしたり、これまた当時のバイク乗りの聖地であり、その年の8時間耐久レースが行われたばかりであった鈴鹿サーキットへ立ち寄ったりして、自由気ままな旅を続けた。関西での数日間の宿はビジネスホテルやユースホステルに飛び込んですごした。立ち寄った甲子園球場ではその日、当時浩宮と呼ばれていた現在の皇太子が高校野球の開会式に出席するとかで、警官が球場付近のいたるところにいたのを覚えている。怪しいバイク乗りのいでたちでは、球場に近づくこともできず、球場近くのコンビニでなにか飲みながら甲子園球場のほうを見やり、ひとり腹をたてたのを覚えている。

 父親の遺骨の納められている真宗大谷本廟のわきをかすめ、1号線を京都から名古屋方面へひた走った。当時は父親に線香をあげようなどとは、露とも考えていなかった。
 3日目の夕方には名古屋についた。暇つぶしに道中みつけたバッティングセンターに行って何セットかバットを振った。ところが、ながくバイクで走ってきたため、革のライディンググラブの下で手はふやけきっており、手のひらの皮がべろっと剥けてしまった。考えてみれば無謀である。

 おまけに、名古屋で当日の宿を探したが見つからず、とりあえず薬局に寄り、手に応急処置。ついでにユンケルかなにかを買って飲み、徹夜を覚悟した。夜に走り回っても危険なだけなので、一宮市あたりの街道筋にあった、24時間営業のゲームセンターで朝までなんとか過ごそうとした。

 ところが、深夜、ゲームセンター前でバイクにまたがったまま休憩していると、いわゆる「ヤンキー」とよばれる少年たちにからまれることとなり、ひと悶着あった。15、16歳くらいの少年ふたり組みが、しきりにバイクを貸してくれとからんでくる。たまりかねてひとりの少年の胸倉をつかむと、もうひとりが捨て台詞をのこして駐車場に走り、やくざだと自称する中年男がなにか叫びながら走ってきた。どうやら少年たちの父親のようだった。酒かくすりにでもに酔っているのか、顔がまっかである。「ヤクザをなめるな」などと叫んでいる。

 こちらはなんとしてもバイクを奪われるわけにはいかないので、蹴飛ばすように振り切ってアクセルを開け、走り出した。俺が胸倉をつかんだほうの少年は、俺のバイクに蹴りを入れてきた。バイクはぐらついたが、転びはしなかった。やつらをぶちのめしたい気分だったが、とりあえずその場をあとにした。痛む手で胸倉を掴んだためか、グラブの中の手がじんじん痛む。

 すると彼らは、白いクルマに乗り込み、タイヤをきしませてゲームセンターの駐車場を出て、こちらを追いかけてくるではないか。いくつかの辻を曲がり、なんとか振り切ったが、自分がどこにいるのか皆目見当がつかなくなっていた。
 真っ暗な道路に一軒のコンビニをみつけて飲み物を買い休んだ。とりあえずコンビニ前でバイクにまたがったままもう一度一眠りすることにした。しかしどうにも眠れない。そうこうするうちに夜が明け初めたので、もう一度バイクを走らせることにした。

 明るくなったので、バイクを降りて、昨夜蹴られた個所を見る。VTにつけていたモリワキフォーサイトマフラーの、アルミの銘板のところに傷がつき、曲がっている。怒りが込み上げてきた。あんなところで夜明かしをしようとしたのは俺であるから、自業自得かもしれないが、当時はこれまたそんなこと露とも思わず、やはり昨日のやつを見つけたらぶちのめしたいという気分だけに支配されていた。

 川沿いを走っていると、ちょうど朝日を逆光にして黒い大きな影がみえた。城?。意表をつく建造物が視界に飛び込んできて驚き、この城はいったいなんなんだとあたりを見回す。やがて案内板のようなものが見つかった。なんとそれは、唯一の個人所有の城として、俺も当時名前だけは知っていた犬山城だった。

 日も高くなり、信州方面に行こうと、犬山城をあとにしてわけもわからずバイクを走らせる。

 そもそも地図も持たずにきた旅である。国道をずっと走っていけばなんとかなるだろうと、岐阜方面をめざす。しばらく走ると、道路の案内板からすでに岐阜市内にいるらしいことだけはわかった。当時の岐阜市内は、名古屋と比べるとおそろしく田舎に見えた。田んぼのまん中に岐阜警察署が見えた。はらわたが煮えくりかえっていたので、ゲームセンターの名前や昨日の奴らのクルマの車種やナンバーを記憶してはいた。昨夜の連中に報復するために被害届でも出してやろうかとも思ったが、警察がとりあってくれるとも思えず、やめておくことにした。

 岐阜市内で食事をとり、駅の裏手周辺の歓楽街を、好奇心からうろうろ。まったく、こんなところをうろつくから変な奴らにからまれるわけだが、当時は怖いもの知らずだったんだから致し方ない。

 そうこうしているうちに、恐ろしく眠くなってきた。昨夜のこともあり、徹夜で体調がよくないのでその日の信州入りはやめておこうと決めた。夕方まで郊外の本屋などに立ち寄ってぶらぶらして過ごし、公園で手のひらのバンソウコウを取り替えた。持参したカメラで、皮のむけた手のひらの写真を撮った。

 この日の宿は一宮市のビジネスホテルに確保した。夕方、岐阜から一宮に戻る最中、昨夜の一件があったゲームセンターが見えた。また怒りがわいてきたが、振りはらって宿へと向かった。
 泊まったのは、家族経営のこじんまりとした宿だった。チェックインすると、中学生くらいの女の子が入ってきた。宿の経営者の娘らしい。
 夕食と朝食が出るはずだったが、フェリーの中や旅先の宿で読んでいた岩波文庫版の「きけわだつみのこえ」を読もうとして横になった。ところがどっと疲れが出てしまい、布団も敷かずにそのまま寝入ってしまった。おかげて夕食を食べそこなったうえ、あっという間に翌日の朝がきてしまった。

 宿をチェックアウト。この時点で俺にとって信州はもうどうでもよくなっていた。いろいろあったし、長旅に嫌気がさしてもう帰る気でいた。行きとは反対のコースで神戸に向かう。帰り道は一気である。もう一度鈴鹿サーキットに立ち寄り、バイク仲間へみやげものを買ったこと以外、一切寄り道なしでぶっ飛ばす。

 フェリーターミナルからトラック甲板の隅にバイクを載せ、売店でビールを買って二等客室へ向かう。なにか退屈な気がして、荷物を調べると、あの戦没学生の手記を一宮の宿に置いてきてしまったことに気づいた。

 旅から帰ってきてからもう一度買った一冊が、今も手元にある。じつは、この本のなかのいくつかの心に残る個所は、この旅の中でみつけたものだ。旅愁から、宿で泣きながら読んだ個所もある。だから俺は、この本を語るために、このような長大なまえがきを書かねばならなかったのだ。ごめんね。

本題は次回のエントリにて・・・

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2005.06.24

ウルグ・ベク

 天体の法則をあきらかにしてきたコペルニクスやジョルダーノ=ブルーノやガリレオ、ケプラーについては、強く心引かれるものがある。主に欧州の科学史のなかで登場してきた人々だが、アリスタルコスやプトレマイオスの時代と、コペルニクスの時代の間には、もはや暗黒時代とはいわないまでも、キリスト教的中世という大きな谷間が横たわっている。しかし、古代ギリシアやヘレニズム、ローマ時代の自然科学の成果は、高度な文明を誇ったイスラム教徒が保存し、西欧に再摂取させたということは、あまり一般に知られていない。

 今回のエントリでは、昨日のエントリで触れたティムールの孫にあたる、ウルグ・ベク(Ulugh Beg ,1393~1449 位1447~1449)を中心に書いてみたい。
 彼は、ティムール帝国第4代のスルタンであるとともに、天文学、歴史学、文学、神学など、およそありとあらゆる方面で才能を発揮した中世イスラムを代表する天才でもある。

 ウルグ・ベクは、青く美しきティムールの都サマルカンドに、彼の名を冠した神学校(ウルグ・ベク・マドラサ)を創設し、帝国内外から優れた学者を招いた。ティムール帝国をわずか4代にして世界に冠たる文化国家に押し上げたのは、主として彼の業績であったといっていい。

 さらにサマルカンドには、ウルグ・ベクが建設した天文台があった。古代グプタ朝インドの数学者にして天文学者のアリヤバータ(Aryabhatta, 476~550)がすでに唱えていた地動説は、インドで生まれたゼロの観念などとともに、すでに中世イスラム社会には知られるところとなっていた。15世紀初頭、ここでウルグ・ベクはみずから「六分儀」という観測器を用いて天体を観測し、現代の天文学者が計算するそれとほとんど違わぬ精度で、地球が太陽の周囲を回る時間、つまり1年の長さを算出してみせたという。それはコペルニクスの「天球の回転について」が出版される一世紀も前のことだ。

 聞けば、ウルグ・ベク・マドラサの中庭には、科学史上名高い5人の天文学者の像が建てられているという。アレクサンドリアのプトレマイオス(生没年不詳、2世紀)、イタリアのガリレオ・ガリレイ、ポーランドのコペルニクス、ホラズムのビルーニー(973~1048頃)と、ウルグ・ベク自身。いつかそれらを目にしてみたいと思う。スルタン・ウルグ・ベクが現代に生きていたら、ニュートンやケプラー、アインシュタインなどの像をここに付け加えようとするかもしれない。

 彼の真理へのあくなき探究心は、保守的なイスラム聖職者を困惑させ、その憎悪を招いた。好きな学問に勤しむには、スルタンの地位はあまりにも重かった。このエピソードを知った高校時代、武門に生まれながら万葉の雅に思いをはせ、心打つ歌を詠んだ鎌倉幕府の第3代将軍、源実朝のことを思い出さずにはいられなかった。彼らに欠けている資質というものがあったとするなら、帝王としてのそれだろうか。

 彼らはやがて、ともに実の息子や甥による暗殺という悲劇的な最期を遂げることになる。

 英主を失ったティムール帝国は、やがてウズベク人によって征服され、ボハラ、ヒヴァ、コーカンドの3ハン国が成立する。そして19世紀になってそれらはロシア帝国に編入されることになる。旧ソ連時代はウズベク共和国と呼ばれていたウズベキスタンが独立するのは、1991年のソ連の解体後のことである。

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2005.06.23

きのうは(!)独ソ開戦の日

 今年は終戦60年の節目ということもあって、ロシアではさまざまな行事がおこなわれているようだ。もう昨日になってしまい、タイミングを逃したエントリだが、6月22日というのは、第2次世界大戦中の1941年、独ソ戦がはじまった日であった。

 すこしまえに、ウズベキスタンの反政府でもがニュースになっていた。長期にわたって独裁をおこなったカリモフ政権打倒を要求し、市民が「暴徒化した一連の動きである。独裁政権が倒れるならまことに喜ばしいが、旧ソ連諸国の一連の政変には、「民主化」の押し売りをすすめるブッシュ政権とCIAの関与も噂されており、真相については、よくわからない部分もある。
 またウズベキスタンは、世界有数の綿花の産出国でもある。開発は主に旧ソ連時代に行われたが、ゆきすぎた灌漑によってシルダリアの流量が減少し、アラル海が干上がり死滅しつつあることは広く知られている。

 世界史でおなじみのティムール帝国(1370~1507)の建国者ティムール(Timur , 1336~1405 位1369~1405)は、ウズベキスタンはサマルカンドの、グリ・アミール廟に眠っている。廟の中には、中が空っぽの偽物の石棺が置かれており、ティムールの遺体を納めたほんものの棺の所在は長らくわからなかったが、のちに廟の地下に安置されているのが発見された。その墓石には「何人も、この墓を暴く者は、恐ろしき者に打ち負かされるであろう」と記されていた。
 1941年6月22日のこと、ソ連の学術調査団は、なんと乱暴にもハンマーを振り下ろして石のふたを打ちわり、棺を開けた。まったく、無神論者は恐れをしらない。ティムールの遺骨には、足を引きずって歩いていたという伝説のとおり、足の骨には大きな傷のあとが残されていたという。

 そのまさに同日、ドイツ軍がソ連領内へ攻め込みバルバロッサ(赤ひげ)作戦が始まったというのである。それ以来、ティムールの墓は封印され、誰もそれを開く者はいないという。独ソ戦による死者はソ連だけでも2000万人を超える。ティムールの呪いとかたづけるには、両国の人民と将兵にとってあまりに悲惨な戦いだった。

 悲惨な戦いといえば、奇しくも今日23日は沖縄戦の慰霊の日。


※追記
 「無神論者は恐れをしらない」などと書いているが、俺ももちろん自称無神論者である。誤解なきよう・・・

※追記2
 事実誤認があったため訂正した。カリモフ政権は「倒れた」などと書いていた。なにを勘違いしたのか。まことに恥じ入る次第である。申し訳ない。

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2005.04.20

玄界灘にて

 何年か前、同僚のクルマで、ともに教えていた日本史の学生たちから、希望者3名を連れて佐賀県の肥前名護屋城址に行った。身近な史跡を訪ねるのも気分がかわっていいかもと思ったのだ。学生たちが貧乏講師らに呼子のイカをバカ食いさせろと言いはしないかと危惧したけど、これは杞憂であった。
 ちなみに同行した同僚は某私立高校の講師でもあり、週末のスポーツ仲間。だからといって必ずしも歴史観やスタンスが一致するわけではないひとなのだが、なにかとよく議論するし、学ぶべきことも多い。なんつっても俺とおなじ九州の阪神ファンである。

 城址は天草・島原の乱以降、一揆勢が立てこもることを恐れ、石垣などは徹底的に破壊されてしまった。しかし、朝鮮侵略の前線基地にしては規模が異様なほど大きいことははっきりわかる。周辺には大名たちの陣の址もあり、掲示板などで本丸のあった高台からその場所を確認できるようになっている。いまでも発掘がすすめられ、近年も秀吉の茶室あとなどが出土しているらしい。

 天気もよかったので、玄界灘も遠くまで見渡せた。沖に見える鷹島はもう長崎県。元寇のとき元軍が上陸し、島を蹂躙したことでも知られる場所である。鷹島沖では近年、元軍が用いたとされる「てつはう」の実物とおぼしきものが海中からはじめて発見された。「蒙古襲来絵詞」に炸裂する場面が描かれているアレである。

 名護屋城には名護屋城博物館が併設されており、特に朝鮮半島との交流史を学ぶことができる。念のために言っておくと、この博物館の展示物は秀吉の朝鮮侵略を美化するものでは決してない。博物館のWebサイトには「名護屋城博物館は、文禄・慶長の役(壬辰・丁酉倭乱、1592~1598年)を侵略戦争と位置付け、その反省の上に立って、日本列島と朝鮮半島との長い交流の歴史をたどり、今後の双方の交流・友好の推進拠点となることを目指して、1993(平成5)年10月30日、名護屋城跡に隣接する位置に開館しました。」とある。日本軍の用いた軍船とともに有名な朝鮮水軍の亀甲船の模型も展示してある。元寇についての展示もあり、元に抵抗した三別抄の紹介もある。また日本統治下の朝鮮の子どもたちが用いた教科書の展示などもあり、古代から近代にいたる日本と朝鮮半島の関係史を学ぶことができるようになっている。

 学生諸君には、見学後、ここの学習室でセンター試験対策の演習問題を解かせた。休日といえど一日中勉強させないわけにはいかないのである。

 帰りに、「漢委奴国王」の金印が発見されたという志賀島へ行った。金印公園に遊ぶ。金印のモニュメントのある公園の地面には、金印のもたらされた1世紀ごろの東アジアの地図が描かれている。
 また志賀島には、文永の役(1274)および弘安の役(1281)にて戦死した元軍の兵士(実質は高麗兵が大部分)のために、モンゴル文字が刻まれた蒙古塚や供養のための塔がある。戦前(1928)に作られた供養塔の碑文は時の首相、田中義一によるもの。この碑の除幕式は盛大におこなわれ、多くの人々が参列したという。
 この碑の前には、除幕式にも参加した当時の華北軍閥の巨魁、張作霖の「蒙古軍供養塔賛」の碑も建てられている。張作霖が元の将兵を弔う日本人のメンタリティを賞賛しているものだが、それからまもなくいわゆる「満州某重大事件」で日本軍(関東軍)に爆殺される張作霖の運命を考えれば、なにやら感慨深いものがある。この事件当時の首相は言うまでもなく田中義一。事件後、昭和天皇の不興を買ったとして彼の内閣は総辞職した。そして張作霖の子、張学良はその後、国民政府に下っていたが、共産党征伐にばかり熱心な蒋介石に憤慨して西安事件を起こし、第二次国共合作のきっかけをつくった。

 志賀島の磯でしばらく遊び、帰りのクルマのなかでは、学生たちといろんな話をして過ごした。このときの学生のひとりは、大学では国際交流関係の学部に進んだ。今年もできることならこのようなイベントをやってみたいものだけど、夏ごろの俺の体調次第かな。
 志賀島といえば、さきの地震で壊滅的な被害をうけた玄界島のすぐそばである。地震後は周回道路が通行止めになっていた。これらのモニュメント群は被害を免れただろうか。

 中国・韓国の反日運動の報道には、本当に悲しい気持ちになる。背景にはいろいろあるだろうし、破壊行為はもちろん許されないことだが、小泉首相をはじめとする与党政治家のアジア諸国に対する配慮がかけらも見られないことも、かの国のいらだちの原因だろう。国連安保理の常任理事国になるなら、アジアの隣人に歓迎されてこそ意味があるはずだ。俺個人は、今の日本が常任理事国になる必要はないと思っているのだけれども、もしその時がくるなら、アメリカの応援団としての常任理事国じゃなくて、アジア諸国の代弁者としての常任理事国になってほしいと思っている。

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2004.03.24

我が心のユーラシア

 NHKが「文明の道 ユーラシア」の再放送を深夜にやっている。語られるのはユーラシアの文明の衝突や融合。人類の歴史への畏敬の念にあふれていて、思わず涙が出てきそう。
 イラクの現状の映像にかぶせて「その昔バグダッドは『平和の都』」と呼ばれていた」なんて語られたらもうたまらない。心はユーラシアを駆けめぐり魂は悠久の歴史に遊びにいってしまふ。はるかな歴史の記憶に心揺さぶられるのも悪くない。
 俺は世界史や日本史を受験生に教える立場でもあるが、歴史は暗記するだけではホントに無味乾燥な教科だろう。俺自身やはり受験指導以前に歴史に魅せられてしまっていると思う。

 毎年生徒たちに必ず最初に言っていることがある。それは「歴史を学ぶことは、あらゆる人文科学、あらゆる社会科学を学ぶことだ」ってこと。その時代の社会を、経済を、法律を、文化を学ぶことだということ。歴史を知ったら、古い時代の芸術も文学も知ってほしいし、その時代へ思いを馳せてほしい。はるか昔を想うことで俺たちの想像力もまた鍛えられるにちがいないのだ。

 NHKのこの種のドキュメンタリーはホント秀作ぞろいだ。以前の「大モンゴル」や「故宮」「四大文明」ちょっと毛色は違うが「映像の世紀」「世紀を越えて」なんかもよかった。まず素晴らしい音楽にヤラれ、そのアカデミックな叙情性(?)にヤラれる。
 一方で政権与党の圧力のかかりまくったNHKのニュースショーはまったくつまらんのだけれども、権謀術数にまみれた政治家は見向きもしないだろうこの種の番組にこそNHKの真骨頂があるね

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